読者が自発的に読んでくれた。
ヤスパース「哲学」の文章は、じっくり腰を据えて読んでください。
じつに高い教養から生まれた名言の集積と言えるので、この再呈示を「ヤスパース名言集」に加えます。
テーマ:絶対的意識(ヤスパース)
順序不同になっても、絶対的意識の主要内容だけは訳しておこうと思っている。
「満たされた絶対的意識」(das erfüllte absolute Bewußtsein)の総て〔II.276-284〕。
これは前文につづいて 「愛」 「信仰」 「夢想」が、満たされた絶対的意識として論述される。
「満たされた」は、「充実させられた」「充実した」とも訳されるだろう。原語は同じである〔:「ダス・
エアフュルテ・アプゾルーテ・ベヴストザイン」〕。
1. Liebe 「愛(リーベ)」 II.277-279
2. Glaube 「信仰(グラウベ)」 II.279-282
3. Phantasie 「夢想(ファンタズィー)」 II.282-284
分量の寡多は、ヤスパースの場合、内実の重要性と全く関係無い。詩が同様であるように。
そして、すでに「1.非知」「2.眩暈と戦慄」を訳した「根源における運動」(絶対的意識の運動)の節から、「3.不安」をあとまわしにして、「4.良心」を訳そうと思っている。
「満たされた絶対的意識」につづいて論述される「現存在の中での絶対的意識の保護」という主題も重要である(イロニー、遊戯、羞恥 等が、此の世のなかで絶対的意識の感覚を護る働きとして論述される)。
この間、きみと一体であればよい。あとのことはそのこと自体にゆだねよう。
満たされた絶対的意識
我々の思惟は、規定的な個々の対象を視野の中に把握し、それ自身の形式の諸々を思惟するかぎりでは、自然なそれ自体である。しかし、この思惟は、あらゆる対象性から自らを転じて諸々の根源へ押し迫り、別言すれば哲学的となる場合は、偽りの対象性において独断的で非真理となるか、或いは、根源、そこから私が存在することが出来るがそれを知り得ない根源に、接近するほど益々、緊張した、間接的で、遂行し難いものとなるか、のいずれかである。この場合、一切は、全く不明瞭なものとなり、単なる悟性にとっては空虚な名辞のみであるに留まるだろう。これら名辞は、悟性にとっては存在しないものの名なのである。
絶対的意識の充実(Erfüllung)を思惟しながら言表する(口に出す)ことは、根源に最も接近することだろう。したがって、ここで困難は最も増大するのである。この困難は、〔他の実存開明の章節のように、読解しながら読者において生ずる〕「共に遂行される運動」の替わりに、直接的で集積的な言表が登場することによって、知られるのである。
〔傍線は訳者が施した。最も論述が平易にみえるだろうところで、じつは書き手のほうでは最もディレンマを覚えているのだと、著者みずからその自覚を予め告げていることは、幾重にも意識に留められるべきである。〕
これまで論究されてきた運動は、非知と眩暈と不安のなかで振動させ、良心において判別と決断によって規定するものであったが、この運動は、自分を受け止めるものが根源から生じて来ないならば、無のなかへ迷い込み、良心は空虚を前にして立ち止まるだろう。転回点における良心は、なるほど最高の法廷であるが、充実ではなく、他の根源へと差し向けられているものであるから、良心自体の独立性において自力で絶対の存在となることはできない。
この根源的なものは、運動によって覚醒させられ、法廷〔良心〕の中へ立たされて、自らの反照を、満たされた 絶対的意識として顕わすのである。
満たされた絶対的意識は、交わりを欠いて超越者と神秘的合一(unio mystica)を果たす場合には、世界の外に あることになろう。この場合、自分自身と一切の対象性とを放棄する自我は、超越者の中に沈み込むのである。〔一方、〕満たされた絶対的意識は、世界の内で 実存にとって現象する場合がある。この場合、この意識は、行為と対象的思惟とを通して、自らにとって客体化するのである。
絶対的意識は、愛 として開明される。この愛は、能動的には信仰 であり、無制約的行為となる。この愛は、観想的には夢想 となり、形而上的な降神行為の如きものとなる。これら愛から生ずるものは、分かち得ない相互的連繫のなかにあるものである。
〔そもそも〕絶対的意識をそれ自体において判別(類別)する行為そのものが、この意識を二度転覆させることになる。すなわち、絶対的意識を〔まず、〕運動の対象を欠いた状態へと転覆させ、そしてさらに、ひとつの不適切な対象性〔の地平〕へと転覆させるのである。その結果、絶対的意識が語られるようにはなるが、それはあたかも、心的な現象の諸々が問題であるかのように、語られてしまうのである。しかがって、絶対的意識の充実を面前にしては、これを語りたいという気持は、最も強く躊躇されることになる。現実と言葉との懸隔は、どんな実存開明においても埋め難く大きいのであるが、ここ〔満たされた絶対的意識の開明〕においては、〔語ること自体によって〕損傷(Verletzung)が生じるかのようになる〔ほど、この懸隔は大きくなる〕。しかし、哲学は、最大の直接性を、それが不可能だと知りながら、この直接性を欲する意志なのであり、具体的現実のなかで実際に求められるのは沈黙であるのに、この求められている沈黙の圧力に敢えて抗して、語る行為を、一般的なもの〔概念〕を媒介としつつ、やり通すのである。
1. 愛
愛は、最も理由なく、最も自明であるゆえに、最も概念形成し難い、絶対的意識の現実性である。ここに、あらゆる「有意味的内実」(Gehalt)にとっての根源があり、ここにのみ、あらゆる「探求」(Suchen)の充実がある。
良心 は、愛がなければ 途方に暮れたままである。愛がなければ、良心は空虚な公式の狭隘さの中に没落してしまう。限界状況の絶望 から解かれるのは、愛によってである。非知 は、愛の高揚のなかで、満たされた現実となる。愛は非知を担い、非知は愛に担われて愛の表現となるのである。眩暈を催して戦慄することから解かれて、愛によって存在の確信へとわれわれは帰還する。
現存在における存在の深い満足は、愛が現前することとしてのみ、あるのである。「私は憎まないわけにはゆかない」ということは、現存在の痛みであり、「私は浅薄な無関心のまま愛しも憎みもしない」ということは、非存在の空虚さである。高みへ登ることは愛において生じ、落ちることは憎しみと愛の欠如において起こる。
愛をいだく者は、感性的なものを超え出て或る彼岸に在るのではない。そうではなく、彼の愛は、内在的世界のなかでの超越者の、疑問なき現前なのである。素晴らしきものは此処と今に在るのである。彼は超感性的なものを観照していると自分で思う。実存は、自らの超越者に根ざした自己存在の確信を、ただ愛においてのみ見出し、他のどこにも見出さない。まことの愛の行為は、失われることはありえない。
愛は無限なものである。愛は、対象的に、愛する存在を知るのではない。対象的に、何故愛するのかを知るのでもない。愛は、自分自身のなかで、〔愛する〕理由 を突きとめることはできない。愛からこそ、本質的であるものは、根拠を得ているのである。愛それ自身は、自らを根拠づけることをもはやしない。
愛は明察力(hellsichtig) がある。愛の前では、存在するものは、自分自身を開こうとする。愛は閉じようとせず、率直きわまりなく知ろうと欲する。なぜなら、愛は、愛の本質契機として、否定的なものの痛みにも耐えようとするからである。愛は、本質的なことに目を閉じて「あらゆる善」をただ積み重ね、生気なく虚ろな「完全」の築城に携わるものではない。愛をいだく者は、他者の存在を直視しようとする。そしてこの他者を根源的に、理由をつけずに無条件で肯定するのである。愛をいだく者は、愛する他者が「在る」ことを欲する。
愛において高揚 と現前する満足 がある。運動と安らぎが、改善と善性がある。そこには情熱的な努力があって、けっして目標(目指すところ)に達しているとはみえないのに、それ自体、特定の「この」形態において、時間の内での現象として、常に目標そのものの現前なのである。
愛は、満たされた現在として、ただ頂上 であり、瞬間 である。だから愛は、ひとつの郷愁のような気持に取り巻かれているのである。完成されて現前しているような愛のみが、郷愁を解消するであろうが。
愛は忠実として反復 である。その都度の客体としての感性的現在と私自身は、一度存在したものとして反復されることはない。反復は、その都度の現在として可能な形態のなかに包まれた、愛という永遠に一なる根源なのである。
愛は「自己となること」 であり、「自己を捧げること」 である。私が真実全的に、保留するところなく自分を与える場合に、私は私自身を見出す。私が私自身を振り向き留保を固執する場合は、私は愛に欠け、自分を喪失する。
愛はその深みを、実存から実存への関係のなかに持つ。そのとき、愛にとって、あらゆる此の世の現存在は、まるで私的な人間性を持っている(persönlich) かのようになる。愛をいだく者が自然を見る眼差しには、風景の魂が、自然の力の諸々の霊的なものが、あらゆる土地の守護神が、〔謂わば〕啓示されるのである。
〔上の最後の段落は、哲学者がひからびた精神の者達ばかりであるどころではないことの証として、ひじょうに興味深い。〕
愛においては、唯一回性 というものがある。一般的なものを私は愛するのではない。かけがえのない(他で代えられない)ものとして現前しているものを愛するのである。あらゆる愛をいだく存在と愛されている存在とは、その都度(かけがえなく)結ばれているのであり、そのように唯一的であることによってのみ、失われることがないのである。
愛においては、絶対的な信頼(Vertrauen) というものがある。満たされた現在(現前)(Gegenwart)は欺くことがない。愛による信頼は、計算や保証にもとづかない。 「私は愛する」ということは、賜物(Geschenk)のようであり、同時に私の本質(Wesen)である。私は愛において、欺かれることのない確信を持つ。もし私が取り違えをするとすれば、私は根源的に自分の本質に責任を負う(schuldig)ことになろう。真の愛の明察性は、取り違えをするということはない。それでも、愛が欺かないということは、私にとって奇蹟のようなものである。この奇蹟にたいし、私はいかなる功労も自分に認めないのである。ただ真正であることによって、つまり私の誠意ある日常行為によって、私は、適宜な瞬間に愛が私を摑むという可能性を準備することができるだけである。そして愛が私を摑むと、愛の前では、その準備的な前提条件はすべて無の様なものとなるのである。
〔上文の印象強い句に傍線を付した。ぼくの「本質」論と深く重なる気がする。愛が明察的に確信するものは、愛する他者の「本質」であり、同時に、愛をいだく「私」の「本質」である。そしてこのふたりの「本質」が、此の世の時間的変転のなかで一貫していることを、賜のような奇蹟と感ずるのである。ぼくが自分の本質的一貫性を、この異常な状態と状況の只中で感ずるのは、絶対的意識の働きの証のような、此の世の奇蹟のようなものである。愛である絶対的意識には、個の魂的本質を感知する明察力がある。「私」が、愛のこの明察力そのものに、何の貢献的付加もなしえないということこそ、自他の「本質」の愛による感知が、純粋で真正なものであることを告げている。それこそ、「存在」「在るもの」との出会いである。高田さんなら「在る美」の「触知」と言うだろう。これは「愛の現前」なくしてありえないのだ。〕
愛は、闘いをふくむ交わりのなかにある。だが、戦いを欠いて所有物となった共同体の意識に逸脱したり、愛のない喧嘩に逸脱したりすることがある。愛は、尊敬しつつ仰ぎ見る(敬仰する)ことにおいてある。しかし、権威崇拝という依存性へ逸脱することがある。愛は援助の慈善行為のなかにあることもあるが、無選択な同情の自己満足に逸脱する。愛は美の観照のなかにあるが、審美的な無拘束性(Unverbindlichkeit)に逸脱することがある。愛は、未だ対象なき愛の準備という、限界のない可能性においてもあるが、酩酊状態に逸脱してしまう。愛は感性的欲望としてもあるが、ただ享受するだけの性愛へと逸脱する。愛は、開放性を求める根源的な知識欲においてもあるが、空虚な思惟やただの好奇心へと逸脱することがある。愛は、謂わば自らの肉体(Leib) として、数えあげられない無数の形態を持っている。この肉体〔に相当するもの〕が独立してしまうとき、愛は死んでしまうのである。どこにでも愛は現前し得るが、愛がなければ一切は無価値なものへと沈み込んでしまう。愛は心をさらってしまう力があるが、「人への親切心」や「自然への愛」に薄められる〔拡散される〕なら、まだ真の愛とはなっていない。そのような拡散された愛は、その根底に立ち返ってあらたに愛の炎を点火せねばならないであろう。
〔愛の本質は、その窮極的な具体性と形而上性とにある、と理解される。〕
〔以上、「愛」の項全訳〕