2022年7月に読んだ本たち+映画のこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

今月も読書記録と映画鑑賞記録のハイブリッドでお送りします。

 

・J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳、白水社、2003年。)

まだ村上春樹の余波が続いている。というわけで今月は、村上春樹訳で読むサリンジャーの永遠の名作から。

 

 

本作の主人公は16歳のホールデン・コールフィールド少年。彼は成績不良で全寮制の高校を退学処分されることになり、そのことを家族に隠したまま実家のニューヨークに帰ることになる。その間にあったこと・かつてあったことを、ホールデン少年の語りで延々だらだら報告されており、あまり筋という筋はない。「これはどういうノリで読んだらええねん」とずっと思いながら100ページくらいホールデン少年の取り留めのない語りを聴いていた。だが、「実は僕チェリーなんだよね、ま、やろうと思えば最後まで行けたはずなんだけどさ」みたいなのが出てきたところで、ホールデン少年が自分で言うほど悪ヤンキーではなく、ドロップアウトしたいけれどもどうにも堕落しきれないエリート子弟なんじゃないかという感慨を抱くようになる。娼婦を呼んだのに会話だけして帰らせ、娼婦を斡旋したエレベーター係と金銭でもめて殴られる描写を見るに、彼はやっぱりなんか育ちがよく、そして臆病なのだ。

 

 

本作は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』という題でよく知られているが、「The Catcher in the Rye」というタイトルが回収されるのは、たくさん引用されてきた以下の箇所である。

 

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだと思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」(22章、286-87)

 

この「ライ麦畑の崖っぷちで落ちそうになる子どもたちをキャッチする仕事がしたい」という発言をどう捉えるか。野崎孝は「こう言っているホールデン自身が誰かに捕まえてもらいたがっている」と考えたからこそ「ライ麦畑でつかまえて」と訳したのだろうが、このロジックを理解するためには直前に語られる投身自殺を図ったスクールメイト、ジェームズ・キャッスルの挿話を見なければならないだろう。その友人は、フィル・ステイバイルという別の奴を「うぬぼれの塊」と呼び、そいつの取り巻き連中に発言の撤回を求められいびられたが、彼は発言を撤回するのではなく窓から飛び降りることを選ぶ。こうして彼は呆気なく死に、彼を飛び降りへと追い込んだ連中もお咎めは放校処分になっただけだった(281-82)。ホールデンは彼のことを実はよく知らず、口を交わしたのも1度きりで、「君の持っているタートルネックのセーターをちょっと貸してもらえないかな」と言われたことのみだった。そして、彼は自殺をしたときにホールデン少年が貸したセーターを着ていた。だから、順当に読めば、ジェームズ・キャッスルはホールデン君の身代わりとして身を投げたことになるのだろう。

 

 

ここをちゃんと精読するまでは、キャッスルの身投げという出来事がトラウマになっているから「キャッチャーになりたい」と言っているのだと思っていたのだが、事態はもっと深刻そうなのがわかった。終盤でアントリーニ先生が言うように、「君は自分が思っているよりも危機的状況にあるのだ」ということになるのだと思う。個人的に思うのは、本作は「欺瞞な社会と個人の対立」並びに「思春期の周囲への反発」というテーマ以上に、もっともっと射程が広いんだろうなという直観で、具体的には人間の精神の危機とそこから立ち直るにはどうすればいいのかというテーマがあるように思えてならない。

 

 

この辺は非常にいいのだが、物語の終幕で、家出して一緒についていくわというフィービーを拒絶し、結局家に帰るという妥協的な選択をするホールデン少年の決断は、まあ物語の必然的な要請でそうなるしかないんだろうなとも思いつつも、あまり納得がいっていない。そんでもって、彼は西部の街の病院で現在療養中というところから本作は始まるわけだから、家に帰った後やっぱり精神がやられてしまっていたのだろうなとも思う。これはかなり思いつきに近い読みだが、訳者である村上春樹が同時期に書いていた『海辺のカフカ』において、カフカ少年の結末がホールデン少年のそれよりも明るく希望に満ちているものであったのは、本作の影響があるのは間違いないのではないかと思うところである。

 

・宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書、2020年。Kindle版。)

2022年7月8日、安倍元首相が銃撃され死亡するという衝撃的な事件が発生した日の夜、ほぼ放心状態で購入した一冊。

民主主義の理念の歴史が手際よくまとめられており、これが新書で読めるのは本当に素晴らしい。世界史や倫理の復習として楽しく読んだ。

 

ただ、正直言って本書の内容にそれほど興味が湧かず、「直接民主主義だろうが代議制民主主義だろうが、どちらにせよ今の日本では機能してねえだろ」以外の感想が出てこなかった。この7月の事件によって民主主義が危機に瀕している、なんていう物語化を試みている場合ではない。政治ではなく直接的な暴力でしか物事が解決しないと考え、そして実行してしまう人が出てくる現代日本の社会状況に、ここ10年くらいでなってしまっているんだということを自覚しないと、何も始まらないだろう。

 

・古川日出男『平家物語 犬王の巻』(河出書房新社、2017年。Kindle版。)

+湯浅政明監督『犬王』の感想

 

『平家物語』延長戦である。池澤夏樹=個人編集の日本文学全集で『平家物語』の翻訳を担当した古川日出男による小説。

 

 

舞台は室町時代。南北朝の分裂から足利義満の統一までの時代である。本作の主人公の一人、友魚(ともな)は壇ノ浦で海に沈んだ宝物を潜り拾うことで生計を立てていた一族の子供であった。ある日、朝廷から海に沈んだ三種の神器「草薙の剣」を拾うことを依頼される。友魚は父と共に舟に乗り目的の剣を拾うのだが、鞘から抜いた途端に剣から光が漏れ、父は真っ二つに、友魚は目を焼かれ失明する。友魚の母は父が殺され、息子が失明したことへの怨みの中で、息子に都に行って復讐することを誓わせる。盲人となった友魚は都に向かう中で琵琶法師と出会い、琵琶法師としてのキャリアをスタートさせる。旅の途中で、京では独自の平曲を語る琵琶法師が相次いで殺されていると聞く。

 

もう一人の主人公・犬王は京の都の猿楽の一座(比叡座)に生まれた異形の子である。彼の父親は、最高の芸術を達成するという目的のために悪魔(と言っていいのか怪しいが)と契約し、犬王はその代償の呪いを一身に引き受けたために異形として生まれる。犬王はその醜い姿で人々を驚かせるいたずらを仕掛けていたが、そこで上京してきた友魚と出会う。友魚は目が見えないため犬王の醜い姿を認知せず、普通に接したため、そこから二人の交流が始まる。犬王が舞い、友一(琵琶法師の同業組合の覚一座に入ることで、彼は友一という名を得る)が琵琶を弾く。犬王はそのあたりに浮遊する平家物語の秘曲を語り殺された琵琶法師の霊と語る(映画では、平家の霊に改変されている)ことで、独自の平曲を語りだす。そして、友一がそれに合わせて琵琶を弾くことによって、それまでの芸能とは全く違う新しいエンターテイメントが生まれることとなる。

 

本作は、室町時代の記録にちょろちょろと出てくるが、作品は何も現存せず詳しいことはよくわかっていない「犬王」(どうやら義満には観阿弥・世阿弥よりも愛顧されていたらしい)の記述にアイデアを取り、古川日出男の語りの力で蘇らせられた小説となっている。作品内容もさることながら、軍記物よろしくなその語りの簡明さと力強さが印象に残った。

 

 

映画は原作の良さを存分に活かしつつ、野木亜紀子の要領よく的を得た脚本、大友良英のロックど真ん中なイカす劇伴、そして湯浅政明の鮮烈な動きの印象などが組み合わさり、非常に完成度の高い映画作品となっている。学部3年の時くらいに観ていたらもっと衝撃でぶっ飛んでいたかもしれない。もうだいぶ文学を語る言葉と経験を得てしまったから、十全に受け止められているという感じがするけど、もっと言葉にできない衝撃とか感動みたいなものが確実にあったと思う。

 

 

本作を鑑賞している中でもう一つ強く思ったこととしては、犬王が交流を持てる平家の霊は別に犬王を呪っていたわけではなく、話を聞いてほしくてその辺にふらふら漂っていたというところ。一家滅亡の無念を遂げた平家の霊が亡霊じゃないというのがなかなか新鮮だったし、死んだ後に現世に影響を及ぼす存在をなんでもかんでも亡霊呼ばわりしていて申し訳なかったなという気づきを得た。このことについてよく考えるために、8月は再び『ハムレット』に取り組むこととなった。

 

・あfろ『ゆるキャン△』(13.5)

+京極義昭『映画 ゆるキャン△』の感想

 

(C)あfろ・芳文社/野外活動委員会

 

当月のメイン。『映画 ゆるキャン△』の話をしなければならない。思えば、2018年のアニメ版第1期放送からもうここまで来てしまったのだなあ。

 

 

相も変わらず高い高い期待値のハードルを軽々と飛び越える、大変素晴らしい映画だった。その達成は勿論2018年~21年のアニメ版の積み重ねに依るものなのだが、たとえもしアニメ版の今までの蓄積がなかったとしても、単発でこの映画だけあったとしても、自分は高く評価していたと思う。

 

 

まず何よりも、2時間の尺をしっかりと活かせているのがえらい。2時間が心地よく溶けているような感覚は、ちょっと得難い経験としてあったように感じる。長くもなく短くもなく、非常にちょうどいい。わりとアニメ映画としては長い方の尺だと思うが、2時間という時間設定がバッチリだった。

 

 

また、「キャンプ場を作る」という一見突拍子もない要素が、社会人になった彼女たちの描写を通すことでやたらリアリティのあるプロジェクトワークになっているところが非常によかった。かつての友人たちを動かし、県庁の偉い人を動かし、そして地元の人や遺跡発掘の作業者と現場を共にして、自分のやりたいことをうまく折衷しながら通していく千明パイセンのムーヴが、マジで敏腕コンサルのそれで思わず笑ってしまった。一見お調子者でうるさいヤツに思われるが、どうすれば人が動くのかをナチュラルに心得ているのは、高校時代からの部長の良さとしてあったよな、と思うところである。もう1点、雨が降りしきる校庭で、自分が勤めていた小学校が廃校となる喪失感と悲しみを隠して「うそやで~」で切り抜けようとするあおいに、真意を見抜いたうえで乗ってあげるところも、彼女が友人をよく理解して思いやっていることが出ていてすごくよかった。

 

他にも、リンが原付で伊豆だの浜松だの行っちゃうヤベー奴まんまの働き方をしているところ(オフィスではソロキャンをするな)とか、なでしこが誰とでも仲良くなれる長所を活かして最強の店員になっているところ(「もう立派な社会人でぇす」すげえ好き)など。高校時代の彼女を知っているから、思わず恩師面をしてしまう。

 

 

 

さて、本作の感想記事としては、下記に挙げるものがかなりよくまとまっており、正直自分から付け加えることがない。

 

 

本作はわかりやすく喪失と再生の物語で、高校生の時の思い出、鳥かご、廃校となる小学校、遺跡など「もう失われてしまった」ものたちを、新しい形で蘇らせて次につなげたいという意志が一貫している。このことは、なでしこの「私たちが楽しいと思ったことを次の世代につなげたい」という趣旨の台詞にももちろん共通している。その要素はキャンプ場を作るプロジェクトが頓挫しかけるという展開でも共通しており、キャンプ場を再生するという物語の大枠の展開の中に、細かな要素の再生が散りばめられているという構造になっている。

 

原作第11巻で、リン・綾乃との大井川キャンプの終わりに帰路に就くなでしこは、「このキャンプももう終わっちゃうけど、思い出はちゃんと残るよね」と独り言ちる(154)。旅もキャンプも、一過性で臨時的な活動としてある。普段は生活をしていない場所へ一時的に出かけ、時を過ごして帰る。普段は生活をしていない大自然に生活空間を立ち上げ、そしてまた片づけて帰る。映画全体を通底する「再生」のモチーフは、これまで『ゆるキャン△』が描いて来たキャンプと旅のエッセンスから正しく派生してきたテーマであるように感じられる。活動の痕跡は形として残らないが、活動の記憶は確実に個人の中に残る。このようにして、キャンプと旅の経験は何度でも蘇り、そして次の世代へと受け継ぐことが可能となっていくのである。

 

 

しかしながら、数ある「喪失されたもの/されていたであろうものが再生する」というコンセプトの中の唯一の例外が年老いたちくわで、恵那とちくわが散歩しているシーンの静かな沈痛さが大変素晴らしい。その一連のシーンで発せられる「あったかい」は本当にヤバくて、この一言に恵那がちくわとの別れをすでに覚悟して受け入れていることが表れている。

 

ちくわが間もなく天に昇ってしまったとして、ちくわとの日々は恵那(と他の面々)の記憶にしっかりと残るだろう。だが、ちくわの次に受け継ぐ者はきっと出てこない。ちくわの生は、代替不能な唯一なものとしてそこにある。『ゆるキャン△』は生きることをフラットな目線で描き続けていると自分は常に捉えているのだが、決して直接的に触れられることはない(が、明確に示唆されている)「ちくわはもう老犬で、この先長くはないだろう」こと、そして横浜に住む恵那が週末に自家用車を飛ばして山梨の実家に帰り、ちくわと日々を過ごしていることに表れている確かな愛情の深さと重さ。ちくわを巡る恵那周辺の挿話が、本作をただ能天気に暖かで幸福な物語にしておかずに、確かな奥行きと手触りを与えてくれているように感じられる。大変よかったです。