さて…
「大神神社の鎭座」の節の中で「祭神」の項が4回に渡り続いていましたが、今回より新たな項へと移ります。
続く項は「伝説」というもの。内容は既に「神名」テーマの「活玉依毘売」にて記したものに内包されています。従ってこの項は省略します。
続く項へと進みます。
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■ 過去記事一覧 ~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
第五章 大神神社鎭座
(執筆/池田源太氏)
■ 神徳
既にこれまで記されていたことに、この項で述べられている多くのことが重複します。体系的な書である故、致し方ないものなのでしょうか。
そうでない部分や、既出であってもその表現方法に面白いものがあったりもするため、取り上げておきます。
◎国の成長を助成
三輪の神が初めて出現するシーンに於いて「神徳」が示されますが、記紀に於いて少し異なります。
先ず記の方から。
━━(大国主神が)この国を「作り堅め為す」に当たり、大物主神が「吾共々に相作り成してむ」━━
次いで紀の方を。
━━如しあらずは、汝何ぞ能く(よく)此国を平けましや。吾在るに因りての故に、汝其の大造之績(いたはり)を建つるを得たり━━
記の方が「一緒に国を造ろう」としているのに対して、紀の方は「吾がいなかったら汝はこの国を平定できていなかった。吾がいたから大きな結果が出せたのだ」と。
大物主神が大国主神に対して、以下のように助成したと表現がなされています。
*記 … 「作り堅め為す」を助成
*紀 … 「大造之績」を助成
◎「大造之績」についての解釈
一条兼良の「日本書紀纂疏」は、「大造は天下之大を造り為す也。績は功也」と註しているとのこと。
ところが「書紀集解」は、中国の「春秋左氏伝」成公十三年春三月の条に「即是我有(レ)大(二)造于西(一)也」とある、「大造」を使用している可能性があるとしてあるとみているとのこと。社預がこれに「造ハ成也。言ノ(二)晋有ルヲ(一レ)成-(二)功於秦ニ(一)」と註しているので、これは晋が秦に対して成功を収めることを謂う用字の様であるから、「大造」とは国の成長していく過程に於いて、大いに伸びる現象と理解せらるるようであるとしています。
このように考えると、記の「作り堅め為す」というのは素朴ではあるが、明瞭さに欠いているきらいがあると。一方で紀の「大造之績」は、ヤマト王権が隣接の勢力に対してその力を拡大していることを示していると解せられるとしています。
箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命の治定墓)
*倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)への神懸かり
三輪の神が倭迹迹日百襲姫命に神懸かりしたとも、妻にしたとも記載されます。第7代孝霊天皇の皇女であり、箸墓古墳の被葬者とされます(最近は崇神天皇陵ではないかと疑っていますが…)。典型的な巫女(シャーマン)的存在。
この神を祀る「三輪族」の中にも、そのような性能のある者の存在した事を敢えて否定することはできない…と池田源太氏は述べています。
いやいやいや…
どの氏族にもそういう者が存在し、たとえいなくとも何とか生み出したでしょう。でないとその氏族の行く末を決められないではないですか!この時代の決定事項はほぼすべて占いによってなされていたのでしょうから。何を言ってるんだろう、この人は。
いずれにしても…ヤマト王権初期はその首権者が、「神主または巫女」(*)によって大物主神の神意を卜定(ぼくじょう)し、隣接の諸勢力を次第に傘下に入れて、国としての成長を遂げました。
ただしこの時代に仮設的ではなく恒常的な神社が存在したとは到底思えません。従って事実上、大田田根子(意富多多泥古)と大和神社の渟名城入姫命が同時に史上初の神主とみてよいかと思われ、おそらく日本国内でわずか2社2人(渟名城入姫命は脱落し市磯長尾市にバトンタッチしましたが)だけの者に対して「神主または巫女」などとするのは問題があろうかと。
ひょっとしてこの人は、この時代に社殿を構えた神社が存在し、神主が常駐していたとでも思っているのでしょうか。社殿が建てられ始めたのは早くても300年ほどは後のこと。この時代は臨時的な仮設祭場に神籬(ひもろぎ)や磐座、御神木等を対象としただけの簡素なもの。
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境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」伝承地。こちらがこの当時の「神社」ではないかと思われます。
◎軍事を助成
「大造之績」は三輪の神が国の拡大を助成したという点は、軍事的な助成の側面を持っているのかもしれないと説いています。
それは神功皇后紀の仲哀天皇九年九月の条に以下の記述がみられることから。
━━諸国に令して船を集め新羅を討たんとするに当り、皇后が神の心として大三輪社を建て刀矛を奉ったので、群衆自ら聚った(あつまった)━━
筑後国夜須郡の「式内社 於保奈牟智神社」(大己貴神社、未参拝)の事と考えられ、大和の三輪社ではないが、同じこととしています。
続紀にも天平九年四月乙巳の条にも以下が見えます。
━━新羅の無礼の状を奉告するため、伊勢神宮・筑紫住吉・八幡二社(宇佐八幡宮)とともに、大三輪の神にも奉幣して祈請された━━
ただし「幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)」という大国主神の「和魂(にぎみたま)」である以上(そういう設定である以上)、軍神としての面は強くはないとみています。
◎疫病を鎮める
次に記紀に三輪の神が登場するのは疫病を鎮める場面。
*崇神天皇記
疫病(えやみ)が起った時、天皇の夢にこの神が現れ意富多多泥古をして御前を祭らしめたならば、「神ノ気起らず国平ぎなむ」と誨えた(おしえた)と記載されます。
「神ノ気起らず」とは、三輪の神が疫病を起す「気」を出さなくなったということだと思われます。
*崇神天皇七年紀
大田田根子を召喚し三輪の神の斎主として奉斎する等で、疫病の鎮静化に成功しました。「於(レ)是疫病始テ息 国内漸謐 五穀既成 百姓繞之」(国内が鎮まって五穀豊穣と成り百姓が潤った)と記載されます。
記紀ともに表現の違いはあれど、三輪の神の疫病を鎮める神徳を語っています。
*「鎮花祭」
「養老令」の「神祇令」には「鎮花祭(はなしづめのまつり)」が記されます。「令義解」には以下が註せられています。
━━謂(二)神神狹井二祭(一)也 在(二)春花飛散之時(一) 疫神分散而行(レ)癀 爲(二)其鎮遏(一) 必有(二)此祭(一) 故曰(二)鎮花也(一)━━
春に花が飛散する時分に疫神が分散する、それを鎮退させるために必ず祭が行われるが、それが「鎮花祭」であると。
(「四時祭」とは毎年季節毎に必ず行われる祭のこと)
◎水の恵みをもたらす「水神」
崇神天皇紀の上記の「五穀既成 百姓繞之」に表されているのがその典型。既出の丹塗矢に化したり、雷神であったり、蛇神であったりする性格は、大きな括りで言うといずれも人々のために水を与える「水神」。
「延喜式」臨時祭の「祈雨神八十五座」の中に「大神社一座」が列しています。
◎酒徳
三輪の神と酒とは切っても切れないほどの濃密な関係。過去にはこのような記事を上げております。
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崇神天皇八年四月紀には、「高橋邑ノ人 高橋活日(イクヒ)を大神の掌酒(さかひと)と爲す」とあります。
また同年十二月紀には、大田田根子をして大神の神を祭らしめた時、活日が神酒を挙げて天皇に献じて、
━━このみきは わがみきならず やまとなす
おほものぬしの かみしき いくひさ いくひさ━━
と詠んでいます。
他にも万葉歌に
━━哭沢(なきさは)の 神社(もり)に神酒(みは)すゑ
祷ひ祈めど(こひのめど) わが王(おほきみ)は 高日知らねど━━巻2-202
━━斎串(いぐし)立て 神酒(みは)坐ゑ(すゑ)奉る
神主部の 髻華(うづ)の玉蔭 見れば乏しも(ともしも)━━巻13-3229
一般的に言って、酒の醸造に於ける発酵作用の不思議は、殊に古代人にとって酒が出来る事には、一つの神意が働いていると見られたことは当然であると。
三輪の神が酒を掌る神徳を持っていることは、つまり、記憶し難い古代から人々はこの神に神酒を奉って祭を致していたことを示唆していると。
最後ばかりは学者らしい述べておられます。最後の一文二文、殊に「記憶し難い古代から…」とその理由が刺さりました。今後引用するかもしれません。
今回はここまで。
目新しいものは特には無く、
ほとんど周知のものでした。
細かい点ではなるほどと思わせられる部分はあったものの、記事作成にかけた時間と見合うほどのものではなかったかな…。
それもこれもすべて勉強と思い
また進めていきます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。









