「本系図」巻頭 *画像はWikiより






◆ 丹後の原像
【87.古代海部氏の系図 ~8】





いよいよというか…
ようやくというか…

本題に進みます。


たかだか130ページ余りの書に
ここまで50ページほどが割かれ

本題は薄っぺらいな…。


これまで気楽に記事を起こしてましたが
ここからはそうもいかん。

しっかり取り組んで参ります。



…その前に!

やらねばアカンことがあるんや!



今回は少々長い記事となります。
最後までお付き合い頂ける方がおられましたらさいわいです。


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 「本系図」と「勘注系図」

先ずは「本系図」と「勘注系図」の概略のおさらいをしておきます。


既に記してきましたが…

海部氏の古系図には「本系図」と「勘注系図」という二つの系図があります。いずれも国宝。正式名称は以下の通り。

*「籠神社祝部氏系図」(略称「本系図」または「海部氏系図」)
*「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本紀」(略称「勘注系図」)

この二つの系図の詳細は後ほど記します。

籠神社の第81代海部穀定宮司により、戦後から家宝が徐々に公開されました。昭和五十一年に二つの系図が国宝指定。翌年に文化財関係者に「本系図」が初公開。昭和六十二年には神殿奥に秘蔵されてきた伝世鏡「息津鏡」「邊津鏡」が
公開。そして遂に平成四年に「勘注系図」が公表されました。その間、昭和五十九年に穀定氏による「元初の最高神と大和朝廷の原始」が発刊されています。

「勘注系図」の公表の衝撃ニュースに心踊ったものですが、当時はまだ大学生でほんのり古代史好き青年程度。

ただただ…世の中が動いた?
そんな感覚だけが未だに鮮明に残っております。

この間に「丹後王国」論や、邪馬台国丹後説などが出され、丹後への注目度が全国区へと舞い上がったかと思います。

その間に塵埃ながらも一匹の「丹後バカ」がつつましく育っておりました。

以降、「本系図」と「勘注系図」という略称にて記していきます。


[與謝郡] 籠神社




■ 海部氏の系図は「偽書」?

さて…

軽く海部氏の二つの系図(海部氏系図)の概要を紹介したところで、これらに対して真っ向から「偽書」説を唱える宝賀寿男氏の見解を掲げておきます。

現在の系図研究の第一人者。もちろん必ず付いて回る古代史にも精通しておられます。

たびたび宝賀寿男氏の論考を当ブログ内で引用しています。理由は史実にもっとも近いものと思えるから。

もちろん100%信用できるというものではなく、またそうすることは非常に危険なことであるのは承知の上。

ただ現在に於いて、宝賀寿男氏以上に古代史を研究なされて、正論を語っていると思う学者はいないと感じるため。その群を抜く膨大な研究量は容易に想像せられ、浅学の輩が異論を挟むなどもっての他。

有無を言わせぬほどの情報量、研究量、考察量ですが。

当ブログでは有り難く氏の説を多く拝借し、一端なことを語らせて頂いております。さほど大したレベルのものでもありませんが、そのなかでもここ2年ほどは氏のおかげで多大な恩恵を賜っております。



◎国宝指定の系図を解説する大役

当ブログのこの「本系図」「勘注系図」の記事では、金久与市氏が著した「古代海部氏の系図」という書をテキストとしています。

ところがここでぶっちゃけると…

金久与市氏が語る当書の内容を覆そうというのが、実は密かな企み。

なぜ海部穀定氏ともあろう神のような御方が、

なぜ金久与市氏という郷土研究家に託したのか不思議でなりません。力量不足は否めません。


海部穀定氏なら金久与市氏の力量も把握できたでしょうし、相応しい人物ではないということくらいは察していたのでは?


少なくとも長らくは海部穀定氏が描いたものとは異なる形で、進んだのではないかと考えています。


金久与市氏は郷土研究家で高校教師。「野田川町史」「加悦町史」編纂に携わったようです。


いち早く穀定氏の取り組みに感銘を受け、飛び付いたか?…などと妄想を。穀定氏はその積極的な姿に心打たれて…妄想捗り過ぎ?(笑)


ただ…
丹後にただならぬ注目を浴びせられたことが、穀定氏の望みであったと考えるのなら…

大成功?
神の為せる技なのか?

金久与市氏は大役を務めるにあたり、精一杯頑張られたのでしょう。それは端々から窺い知ることができます。でも残念ながら…というところです。


[與謝郡] 眞名井神社 (籠神社奥宮)




◎宝賀寿男氏が語る「本系図」

先ずは系図のスペシャリスト、宝賀寿男が語る「本系図」を記しておきます。現代では最も多くの系図に触れられているであろう氏の語る言葉を知っておきたいから。

━━料紙は楮紙五枚を継いで縦に用いており、巻子本仕立ての一巻(縦二五・三センチで全長二二一・二センチが現存。ただし、第五紙の末端が少し欠損しており、二十センチほどの欠損かとみられる)となっている。その料紙の中央に淡墨の一線を縦に引き、線上に始祖以下の歴代の人名を記している━━(冒頭写真参照)

素人とは異なる視点が見受けられます。
料紙が重要であろうことは何となく分かります。それで作成時代を測る一つの手立てとなるため。また記載方法も時代のトレンドがあるでしょうから、氏なら時代測定手立ての一つとなるのでしょう。

━━記載は冒頭に「丹後国與謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏」(…籠名神に元より今に斎き奉る祝部として仕え奉る…)と記し、以下、始祖彦火明命から児海部直田雄祝までを一筆で記されており(ただし、後世の追加筆とみられるものが二個所ある)、歴代人名の上には方六・六センチほどの朱方印の印影がかすかに見られる。系図に記される人名(神名)は合計十八名で、一世代のみ二名の弟を記す以外は、始祖直系子孫のみで十六世代(途中に世代の省略がある)を掲げ、記事は簡素である。歴代の記載は、人名の表記及び注記の内容により、①「始祖彦火明命」から「孫健振熊宿祢」に至る上代(三代)、②「児海部直都比」から「児海部直□□(一説に「勲尼」)」に至る海部管掌の時代(五代)、③「児海部直伍佰道(イホジ)祝」以降の、人名の末尾に祝部を称する時代(八代)、に大別されており、伍佰道祝以降には各々祝部として籠名神社に奉仕した期間が注記される━━


素人ならほとんど神名にしか目がいかないものですが…。


━━同系図は巻末の欠損があり、最後の「児海部直田雄祝」の注記部分を若干欠くとみられるが(「従嘉」という記事のみ残り、嘉祥□年「西暦八五〇年前後」よりの意)籠名神を従四位下と記しているので、貞観十三年(871年)から元慶元年(877年)の間の成立と認められるとされる。本文の体裁は竪系図の古態をよく存し、正史に見えない古代地方豪族の変遷のあり方を伝えて、わが国の歴史研究上もその価値が極めて高いものとして、一般に評価されているものである━━


「本文の体裁は…」から始まる最後の五行(キャリア等デバイスにより行数は異なると思われます)が、国宝指定された理由かと思います。

[與謝郡] 夜明けの「天橋立」




◎宝賀寿男氏が語る「偽書」説の根拠

「海部氏系図」が「偽書」であるとする研究者は多くいます。それらはあまりに記紀等の文献に記される通説の古代史とは、大きく乖離しているため。

ただし「偽書」説の明確な根拠が、はっきりと示されているのを見たことはありません。

それに対して宝賀寿男氏は、明快に、いや軽快にとでも言うべきか…根拠を詳細に示されています。素人にでも簡単に理解でき得るレベルにまで。

その「偽書」説の根拠を見ていきます。先ずは全体的なところから。

*世の系図は「偽撰」「仮冒」まみれ
多かれ少なかれ世の系図は「偽撰」「仮冒」を含んでおり、特に古代まで遡るものについては、殆ど全部と言ってよいくらいのものであるとしています。

少なくとも宝賀寿男氏以上に世の系図を見てきた人は現世に存在しないでしょうから、そういうことなのでしょう。

なおそうなってしまっている理由を、「祖先を尊貴の家系につなげて、地位・所領等の様々なの功利に結びつける例が多いからである」としています。

*実在性の疑問
歴代十七名(始祖の彦火明命を除く)が他史料にまったく所見がなく、実在性の傍証もまったくない。だから先ず疑問視することから始めねばならないとしています。

普段より特に古代史の学問のあり方に対して大いに疑問を抱いています。

ある説を導くのに反証論やら…○○論云々が用いられるのを多くみかけます。これらは甚だいい加減なもので、確証のまったくないものを複数組み合わせて、一つの説を練り上げるもの。そしてもっともらしい○○論などと銘打って、あたかも正しいことを唱えているかの如く。

こんなことは他の学問では絶対にあり得ないこと。特に古代の歴史学にのみ許され、罷り通っていること。
こんなことをしているから、俄か古代史ファンからいくらでも適当なツッコミが入ったり、それこそいくらでも勝手気ままな説が登場してくる原因に。私なんぞもその俄か…の一人。

*系図は本当に平安初期の作成?

上記のように一般には、「貞観十三年(871年)から元慶元年(877年)の間の成立と認められるとされる」とされています。またこれが現存する最古級の系図として国宝指定された最大の要因となりました。


先に━━巻末の欠損があり、最後の「児海部直田雄祝」の注記部分を若干欠くとみられる…━━と引用しました。これを一方の「勘注系図」に基づくと…として、━━「従嘉祥元年至于貞観六年合十六年奉仕」(848~864)と記事が本系図にあったのではないかと推測される━━と一般的には言われていると。


これに対して宝賀寿男氏は、━━勘注系図の奥書記事には、「至于貞観年中海部直田雄祝等奉勅撰進本系」とあって、神階昇叙時期との間で整合性が必ずしもとれていない可能性がある━━としています。


つまり「本系図」は「貞観六年」としているのに、「勘注系図」は「貞観年中」としており、整合性がとれていない可能性を指摘しています。だから「勘注系図」の内容を「本系図」に持ち込むことは問題であると。後世に作られた「勘注系図」の記事の信頼性がどこまであるのか…としています。


そもそも「勘注系図」が「きわめて疑問の大きい記事を多々含む系図」としています。「勘注系図」の成立は中世以降であろうとも(「勘注系図」の問題については次回に記事とします)


また紙質、筆勢によって、成立時期を平安初期と断定するのはまず無理な話であるとのこと。だいたい第五紙の巻末部分が20cmほども欠損していることも不審であるとしています。


*平安前期の「本系帳」との関係

「本系帳」という日本古代の系譜書があります。氏族の系譜の混乱や偽りを正すため諸氏族に提出を命じたもの。貞観年間(859~877年)には毎年提出が規定、元慶元年(881年)からは三年毎に提出が規定されました(「類聚三代格」や「日本三代実録」による)

「本系図」はこの「本系帳」を書写したものと結論付けられたようです。

ところが、「将又その組織に於いて、自ら系線を以て綴られた系図とは趣を異にし、一門の系譜を明確にする門文が集積圧搾され、その本系を明にせるもの」であるとする石村吉甫氏(古代史学者)の考えを受けて、宝賀寿男氏は「本系図」を「本系帳」と認めることはできないとしています。

*「丹後国印」の押印
系図上の各人名(神名)の上に角形朱印が押印されています。これは解析写真撮影による調査の結果、「丹後国印」と確認されています。

系図作成後に丹後国庁に提出され、公任の証として捺印された…というのが定説。確かに「丹後国印」の押印をもって、「本系図」の信憑性が確かであるとしている論文を多く見かけます。

これに対して宝賀寿男氏は、━━そもそも系図にこうした国衙認証の仕組みがあったかどうかは不明である。この朱印が仮に丹後国印と読めるとしても、当時の官印かどうかの確認もなし難い。従って、朱印押捺を重視するのもいかがなものであろうか。石村氏は本系帳であることを否定し、これをうけて後藤四郎氏は、官に提出したものの控えとみており、その場合にどうして官印が押捺されるのだろうか。朱印押捺はかえって造作ではないかと疑われ、疑問の大きいところである━━とばっさりと切り捨てています。

「本系図」の「丹後国印」
(冒頭写真を拡大切り抜きしたもの)



続いて記事内容についての疑問点が語られています。怒涛の如く疑問点を洗いざらいに…。特に当ブログに必要と思われるものだけを抽出します。

*神名表記の疑問点
「海部直都比」「海部直縣」の表記方法が疑問であるとしています。
大化前代、「庚午年籍」以前の表記法は「名前+姓」であると。つまり「海部都比直」「海部縣直」でないとおかしいとしています。

これが原因でした。いつまでも神名が頭に入らず、なぜか詰まる…。よくよく見ればおかしいのは歴然でした。

この表記法が見られるのは、他に唯一「粟鹿大明神元記」のみで、そちらは内容等に非常に疑義のあるものであると(未確認)。古代系図のなかで他に唯一同様に国宝指定されている「円珍俗姓系図」と比較すれば、「本系図」の奇妙さがよく分かるとしています。

*奇妙な神名が目立つ
「伍佰道」「愛志」「望麿」「「雄豊」という名前、また「勘注系図」の「勲尼」は他見がなく奇妙な神名であると。

*彦火明命が天押穂耳尊の第三子?
記や物部氏系の系譜に於いては天押穂耳尊の長子、紀の一書は瓊瓊杵尊の子。第三子とする史料は他に見当たらないようです。

*三世孫の倭宿祢命と高倉下の欠落
三世孫を倭宿祢命としているのは他史料に見当たらない、また尾張氏の始祖という高倉下(天香語山命)が欠落しているのが疑問。肝心の重要人物を書き込まない「本系図」に、いったいどんな意味があるのだろうとまで言い及んでいます。

そうなのです。籠神社(正確には奥宮の眞名井神社)の創祀に携わったという、天香語山命(高倉下命)が欠落しているのはいったいどうしたものか?

天香語山命と高倉下命とを同神とするのかどうかは慎重にならざるを得ませんが…。また天香語山命の次代(三世)の天村雲命さえも欠落しているのです。


眞名井神社の社伝による創祀譚は以下の通り。


━━「真名井原では海部家の始祖彦火明命(天火明命)が豊受大神を創祀し、二代目の天香語山命が磐境を起こし通し、「匏宮(よさのみや)」を創建。磐座の豊受大神を主座として神祀りを行っていた。天香語山命は三代目の天村雲命が「高天原」より「真名井原」に持ち下った「天の真名井」の霊水を匏(ひさご)に入れ神祀りを行っていたと伝えられている━━

第82代海部光彦宮司と親しくされておられた方から、令和に至っても天香語山命の御遺志を受け継ぎ、当時と遜色なく奉斎を続けておられるという話を伺ったことがあります。果たしてそのような偉大なる祖神が、系図から欠落するなどということがあるのでしょうか。


[加佐郡] 眞名井の清水(舞鶴市七日市)

こちらが「真名井原」ではないかとも言われる



*丹波国造は丹波直

丹後国が丹波国より分離独立したのは和同六年(713年)。応神朝に海部直氏が丹波国造であったとしているのは疑問が大きいとしています。


*「海部直」という表記は中世以降?

丹後に「海部直」と表記される史料が他には無いとのこと(他地域では見られる)。中世に見られる海部氏という苗字に由来するかもしれないと。


*千嶋祝の代だけ兄弟が記される

海部直千嶋祝(天火明命二十七世)の代だけに弟海部直千足、弟海部直千成の三兄弟が記されています。

白絲濱神社の海部宮司に私自身が伺ったところでは、三兄弟の時代に熊野郡(現在の京丹後市久美浜町)「海士(あま)」から海部直は各地に移住。千嶋(長子)は与謝郡の籠神社を、千足(次男)は丹波国天田郡の天照玉命神社を、千成(三男)は加佐郡の笶原神社を奉斎することになったとのこと。なお白絲濱神社宮司は笶原神社を兼務。


当時は何も疑わず、移住した…三地域に分かれた…だから三兄弟を特別に載せた…などと解釈しました。


また「勘注系図」の方に、海部直千嶋の弟の海部直千足が丹波直足嶋の父と記されているようです。姓氏変更の点などで疑問が大きいとしています。


続紀の和銅四年(711年)十二月条に「犯罪者丹波史千足」とあり、「但馬国正税帳」天平九年(737年)には「丹後国少毅無位丹波直足嶋」とあるようです。別系統・別氏族で姓が異なる丹波史氏(渡来系の東漢直氏一族)の者が同族系図に入れ込むのは笑止でさえある…と。こうした姓氏の判別すらできない者が後世に系図を偽造したとしか考えられない…と厳しく批判しています。


最後にまとめとして宝賀寿男氏は以下のように語っています。


━━信頼すべき記事は本系図にはまるで見当たらず、歴史原態の探求には役立たず、信頼ができない史料でしかないという評価である━━


神宝の木製扁額
*社務所に掲示されたものを写したもの




大変長い記事となってしまい恐縮ですが…

結局のところ役立たずのでたらめ史料であると、まとめています。



次回は「勘注系図」の方を。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。