[和泉国] 蟻通神社






【枕草子】第229段 社は… (蟻通明神)





普段よりあまり関心を示さない平安時代。


血迷ったか?
などと思われそうですが(笑)

この後記事を上げる
泉佐野市長滝町の蟻通神社の記事において必要なため。


嫌いではないのです。
この時代のこと。

なんなら日本史に尋常ではない興味を抱くことになった、原因の一つでもあることですし。


既に中学生の頃に原文・現代語訳を著わした書を読破していますし。興味津々に。


感性の鋭さ、
また豊かな再現力と優れた表現技法…

中学生のバカ頭ですら感じ得たものです。



「枕草子」は崇高な文学作品なのでしょうが、あくまでも「随筆」。私自身の世界観で現代語訳してみました。

ご批判もあろうかと思いますが…

専門外の時代であり、
またあくまでもブログ内の記事ということでお許し頂けましたらさいわいです。


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土佐光起画「清少納言像」
*画像はWikiより



【原文】
229段

社は布留の社 生田の社 たびの御社 花ふちの社 杉の御社は しるしあらむとをかし ことのままの明神いとたのもし さのみ聞きけむとや言はれ給はむと思ふぞいとほしき 蟻通の明神 貫之が馬のわづらひけるに この明神の病ませ給ふとて 歌詠みて奉りけむいとをかし 


【現代語訳】
社はね…布留の社、生田の社、丹比の御社、花ふちの社、杉の御社は霊験があるのだろうと思うと趣あるものなの。ことのままの明神はとても頼もしいの。「そのように聞いている」と言われるようになってしまうと思うと愛おしくてキュンッてしちゃう。蟻通の明神はね、紀貫之の馬が病気になった時に、この明神の祟りだとされて歌を詠んで奉ったと聞くのだけれど、とても趣あるものなの。


【補足】
◎冒頭に清少納言のお気に入りのお社が列挙されています。中でも蟻通神社の由来やエピソードを知り、この記事を起こしたのでしょう。

*布留の社…大和国山邊郡の石上神宮
*生田の社…摂津国の生田神社
*たびの御社…河内国丹比郡の丹比神社
*花ふちの社…陸奥国(宮城県)の鼻節神社
*杉の御社…大神神社
*ことのままの明神…遠江国の事任八幡宮
*蟻通明神…和泉国の蟻通神社

「御」が付されたり付されなかったり、少々不可解なのですが。また陸奥国まで本当に出向いたのか?とも思います。
「たびの御社」については、特定の神社を指すのではなく、「御旅所」を指すという説もあるようです。また蟻通明神は紀伊国牟婁郡の蟻通神社とする説も。

◎「蟻通明神」の紀貫之の馬が病に…というのは「貫之集」などに記される説話。紀州へ補任の途次、蟻通明神の前を素通りしたために、馬に祟ったとされ、貫之が和歌を奉納したことにより、明神の怒りが鎮まったなどというもの。



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[和泉国] 蟻通神社境内の「貫之の歌碑」。

━━かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは━━



【原文】
この蟻通とつけけるはまことにやありけむ 昔おはしましける帝の ただ若き人をのみ思しめして 四十になりぬるをば 失はせ給ひければ 人の国の遠きに行き隠れなどして 更に都の内にさる者のなかりけるに 中将なりける人の いみじう時の人にて 心なども賢かりけるが 七十近き親二人を持たるに かう四十をだに制することに まいて恐ろしと 懼ぢ(おぢ)騒ぐに いみじく孝ある人にて 遠き所に住ませじ 一日に一度見ではえあるまじとて 密に家の内の土を掘りて その内に屋を建てて 籠め据ゑて行きつつ 見る人にも公にも 失せ隠れにたるよしを知らせてあり などか家に入り居たらむ人をば 知らでもおはせかし うたてありける世にこそ この親は上達部(かんだちめ)などにはあらぬにやありけむ 中将などを子にて持たりけるは 心いとかしこう よろづの事知りたりければ この中将も若けれど いと聞えあり いたり賢くて 時の人に思すなりけり


【現代語訳】
この「蟻通」と名付けたのは、ウソかホントか、昔おられた帝がただ若い人だけをご寵愛になってね、四十歳になった人を殺してしまわれたので、年を取った人は遠い地方の国に行って身を隠したりとか、都の中にそういった年の者は一人もいなくなったの。中将である人でとても帝から寵愛を受けていた方で、賢い頭を持っていたのだけれど、七十歳に近い両親がいたの。四十歳でさえ処罰されるというのに、まして老人になれば何をされるんだろうと恐ろしがっていたのだけれど、中将はとても孝行な人なので、両親を遠い所には住ませないでおこう!一日に一度は顔を見たい!…と思って、密かに家の中の土を掘って、その中に小屋を建てて、両親をそこに隠して住まわせ会っていたのよ。世間にも帝にも、両親はどこかに消えて姿を隠してしまったという風に知らせている。どうして家の中に籠っているのに…知らないままにしていらっしゃいよ。何て嫌な世の中だこと。この親は上達部などではなかったのかもしれないの。中将などを子供に持っているということは。両親は頭がとても賢くて何でも物事をよく知っていたの。この中将も若いけれど、賢明な人物であるととても評判が良くて、そのためとても帝から寵愛されていたのよ。


【補足】
◎「上達部(かんだちめ)」…上級役人


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菊池容斎画「清少納言」
*画像はWikiより



【原文】

唐土(もろこし)の帝 この国の帝をいかではかりて この国討ち取らむとて 常にこころみごとをし あらがひごとをしておそり給ひけるに つやつやと丸(まろ)に、美しげに削りたる木の二尺ばかりあるを これが本末いづ方 と問ひに 奉れたるに すべて知るべきやうなければ 帝思し煩ひたるに いとほしくて親の許に行きて かうかうの事なむあると言へば ただ速からむ川に 立ちながら横ざまに投げ入れて 返りて流れむ方を末と記してつかはせと教ふ 参りて我知り顔に さてこころみ侍らむとて 人々具して投げ入れたるに 先にして行く方に印をつけて遣はしたれば まことにさなりけり また二尺ばかりなる蛇(くちなは)のただ同じ長さなるを これはいづれか男女とて奉れり また更に人え見知らず 例の中将行きて問へば 二つを並べて尾の方に細きすはえをしてさし寄せむに 尾はたらかさむを女と知れと言ひける やがてそれは内裏の内にてさしけるに まことに一つは動かず一つは動かしければ またさるしるしつけて遣はしけり ほど久しくて七曲(ななわだ)にわだかまりたる玉の中通りて 左右に口あきたるが小さきを奉りて これに緒通して賜はらむ この国に皆しはべることなりとて奉りたるに いみじからむものの上手不用なりとそこらの上達部 殿上人 世にありとある人言ふに また行きてかくなむと言へば 大きなる蟻を捕へて 二つばかりが腰に細き糸を付けて またそれに今少し太きを付けて 穴の口に蜜を塗りてみよと言ひければ さ申して蟻を入れたるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいと疾く(とく)あなたの口より出でにけり さてその糸の貫かれたるを遣はしてける後になむ なほ日の本の国はかしこかりけりとて 後にさる事もせざりける この中将をいみじき人に思しめして 何わざをしいかなる官位(つかさくらひ)をか賜ふべきと仰せられければ さらに官(つかさ)も爵(かうぶり)も賜はらじ ただ老ひたる父母の隠れ失せて侍る尋ねて 都に住ますることを許させ給へと申しければ いみじうやすき事とて許されければ よろづの人の親 これを聞きてよろこぶ事いみじかりけり 中将は上達部 大臣になさせ給ひてなむありける さてその人の神になりたるにやあらむ その神の御許(おんもと)に詣でたりける人に 夜現れてのたまへりける 
━━七曲(ななわだ)に まがれる玉の 緒をぬきて ありとほしとは 知らずやあるらむ━━とのたまへりけると人の語りし


【現代語訳】

中国(唐土)の帝がこの日本国の帝をどうにかして騙し、征服しようとしていたらしいの。いつもその知恵試しをして論争を仕掛けては、襲ってきていたの。つるつると丸くて綺麗に削った木の二尺ほどの長さのものを出して、「これの根元と先はどちらか?」と問いただして献上したけれど、まったく分からない。(日本国の)帝は思い迷っておられたけれど、中将はお気の毒に思って親の所に行って、「これこれの事があったのですが…」と言うと、「ただ流れの速い川に、立ちながら木を水平にして投げ入れ、くるりと返って先に流れていく方を、末だと書いて送り返せば良い」と中将に教えたの。中将は参上してさも自分が知っていたという顔をして、「さあ!その方法を試してみましょう」と言って、人々を連れて木を投げ入れてみると、先になった方に末だという印をつけて返したのだけれど、本当にその通りだったそうよ。また二尺ほどの長さの蛇の全く同じ長さであるものを、「これはどちらが男?どちらが女?」と難題を言って献上してきたの。またまったく誰も見分けることができない…。そこで中将がいつものように両親の元へ行って聞いたら、「二匹を並べて尾の方に細い小枝をさし寄せた時、尾を動かしたほうが女(雌)だということを知っておきなさい」と言ったんだって。内裏の中でそのままやってみたら、本当に一匹は動かなくてもう一匹は尾を動かしたから、またそういう印をつけて送り返したんだって。しばらく経って、七曲がりにくねくねと曲がった玉で、中に穴が通っていて、左右に口が開いた小さいものを献上して、「これに糸を通してお返し頂きたい。我が国ではみんながそうしていることです」といって差し出してきたので、「どんなに上手な職人であっても、この曲がった玉に糸を通すのは無理だ」と、その辺の上達部、殿上人など、世の中のありとあらゆる人は言うけれど、また中将が親の所に行って、「このようなことがありました」と言うと、「大きな蟻を捕まえて、二匹ほどの腰に細い糸をつけて、その糸の先にもう少し太い糸をつけて、穴の口に蜜を塗ってみなさい」と言ったので、帝にそう申し上げて蟻を入れてみた所、蜜の香りを嗅いで、本当に凄い速さで、もう一方の口から出てきたの。そうしてその糸の貫かれた玉を送り返してから後は、「やはり日の本の国は賢い国であった」ということで、その後はそのような事を唐の帝はしなくなった。帝はこの中将をとても重要な人材だとお思いになられて、「どのような恩賞をして、どんな官位を授ければ良いのか。」とおっしゃられたけれど、「これ以上の官も爵位も頂きたくはございません。ただ老いた父母が身を隠しておりますので、そこを訪ねて都に住むことをお許し下さいませ」と申し上げると、「非常に簡単なことである」と帝は言ってお許しになられたので、世間の人の親はこれを聞いてみんなとても喜んだのだって。中将は上達部から大臣にまでおなりになられた。ところでその親であった人が神様になられたのか、その神様の元にお参りした人の夢に夜現れておっしゃったの。━━七曲(ななわだ)に まがれる玉の 緒をぬきて ありとほしとは 知らずやあるらむ━━(七曲がりに曲がった玉に、緒を貫いて蟻を通した、その蟻通し明神という神を、世間の人は知らないのだろうか)とおっしゃったのだと、ある人が話してくれたわ。


【補足】
◎長々と綴られていますが、結局のところ七曲の穴が通った玉に、蟻を使って通したことから「蟻通明神」とされたという伝承を話しています。

◎「蟻通」という名の由来については諸説有り。この説話を社名由来としているのは、和泉国日根郡の蟻通神社、紀伊国伊都郡の蟻通神社、牟婁郡(田辺市)の蟻通神社(未参拝)。

ところが「蟻通」の由来として有力なのは、中世の頃に上皇を中心とした「熊野詣」が盛んとなり、その様子が蟻が通るほどにごった返していたというもの。

大和国吉野郡の丹生川上神社 中社はかつて蟻通神社と称されていましたが、こちらは式内社比定の立役者となった森口奈良吉翁がこの説を採っています。また東吉野村には「蟻通溪谷」と称される地もあります。




[紀伊国伊都郡] 蟻通神社



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