保食神(豊受大神)が天照大神のために、初めて籾種を蒔いて稲作をした場所と伝わる。






◆ 丹後の原像
【93.豊受大神にじわりと… ~3】






長い沈黙(放置)を終え
久々に再始動させたこの企画物記事。

前回の記事にて「天日槍と丹後」を終え、
今回より「豊受大神にじわりと…」に戻ります。


今頃になり
大変なところにまで首を突っ込んでしまったもんやと、大いに後悔しております。

時期尚早か?

いやいや!

気合いを入れて
何とかやりきりたいと思います。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


[丹後国丹波郡] 多久神社

通称「天酒大明神」として豊宇賀能咩命(豊受大神)を祀る




■ 軽いおさらい

これまで2回に渡り記事を進めています。あまりに期間が空いたため、その経緯を以下に記しておきます。



* 記には伊邪那美神が陰を焼かれて死んだ際に生まれた一連の神の子のうち、和久産巣日神(ワクムスビノカミ)の子として生まれたとある。豊宇賀売命(豊受大神)のみがとって付けたかの如く神名が記される。神名のみが記され事蹟や子孫等の記載等は無い。

* 紀にはまったく神名が登場しない。記す必要性の無い無視してよい神という認識であったのだろうか。

* 丹後国に於いて祀られた神であったということに疑いはないであろう。

* 丹後国から伊勢国度会郡へ、一律に雄略天皇二十二年(5世紀末頃に推定)に遷座されたとある。ただし記紀にはその旨の記載が一切無い。

* 摂津国に滞在したとの記録があるため、他地域から丹後国へ、或いは丹後国から他地域へ移遷したという可能性を探る衝動に駆られる。

* 丹後国内では丹波郡の式内社等の主要社がほぼすべて豊受大神を祀る。ところが他の四郡ではほとんど祀られていない。ただし與謝郡の籠神社(眞名井神社)、加佐郡の笶原神社という甚だ重要な社では祀られている。

大宮賣神社に於いては、「大宮賣神」に対する「若宮賣神」として豊受大神が祀られている。


[丹後国丹波郡] 大宮賣神社拝殿の扁額



■ 大和と丹後との関係

伊勢神宮というのは、大和朝廷がヤマト王権の頃より天照大神を皇祖神と称えて内宮に祀った社とされます。一方で伊勢の外宮に鎮まるのが豊受大神。内宮の天照大神に神饌を給仕するために丹後から遷し祀られたとされます。

つまり外宮 豊受大神は、大和朝廷(ヤマト王権)の手により丹後から伊勢へ遷し祀られたということ。

既にこの「丹後の原像」内で何度も触れてきていますが、丹後と大和朝廷(ヤマト王権)との関係をおさらいしておきましょう。



[丹後国竹野郡] 網野銚子山古墳



◎「丹後王国」の栄華

「日本海三大古墳」と呼ばれる網野銚子山古墳神明山古墳蛭子山古墳という、日本海側に於いて他より図抜けた規模の古墳がいずれも丹後に築かれました。全長150~200mの前方後円墳、4世紀中頃~5世紀初頭。

これは「丹後王国」の象徴とも言えるもの。「丹後王国」という名に就いては慎重になりますが、それほどの大国がこの時期に存在したということ。また前方後円墳であることから、ヤマト王権の支配下にあったということが窺えます。

それより先の弥生時代末期(3世紀前半頃)には、竹野郡の赤坂今井墳墓に於いて大量の「ガラス玉」が被葬者に装着された状態で出土しました。

墳形は台状墓であり、この時代のものとしては全国最大級の規模。「丹後国王」よりさらに前の時代であろうと考えられます。まだヤマト王権の支配が及んでいなかったと思われます。

さらに遡り、1世紀頃には竹野郡の奈具岡遺跡にて、大量のガラス玉工房跡が発見されました。鉄製工具が加工に用いられ、付近からは巨大な「鉄」の鍛冶工房跡が発見されています。
ガラス玉工房跡は東アジア随一とも見られるもの。また鍛冶工房跡はこの時期のものとしては断トツに日本最大のもの。

つまり九州や出雲に比肩する、或いはそれ以上の大国が丹後に存在していました。
おそらくは1世紀以前より、東アジア最高水準の「ガラス玉」を作り朝鮮半島へ輸出、代わりに「鉄素材」を輸入し丹後国内で製鉄鍛冶を行っていたものとみられます。
そこに目を付けたのがヤマト王権だったということになろうかと思われます。



[丹後丹波郡国] 赤坂今井墳墓から出土したガラス製頭飾り (「丹後古代の里資料館」展示物)




◎ヤマト王権との関わり

北九州の筑紫から東遷し大和を平定して築き上げたヤマト王権。穏やかな気候、災害が比較的少なく、交通の便も良く…とあらゆる面で最良の土地であったのでしょうが、唯一致命的とも言える欠点がありました。それが「鉄」不足。

当時は農具としても武器としても大量の「鉄」が必要でした。その確保に乗り出すことが必要でした。そしていち早く目を付けたのが吉備と丹後ということだったのでしょう。

以下、各文献等を中心に、丹後とヤマト王権との関わりを簡単にみていきます。

* 第9代開化天皇の妃に竹野媛が迎えられる。
初代「丹後国王」と言われる由碁理(「勘注系図」では武諸隅命と同神とする)の娘。この時、丹後の歴史は動いたと言える。

* 第10代崇神天皇十年、勅命により丹波道主命(開化天皇皇子の日子坐王の子)が丹波(後の丹後)へ派遣され平定(記では彦坐王が派遣されたと記載)

* 丹波道主命川上摩須の娘、川上摩須郎女(カワカミマスノイラツメ)を娶り、日葉酢媛等姉妹が生まれる。

* 崇神天皇三十九年、豊鋤入姫命は天照大神を但波の吉佐宮に遷幸し四年間奉斎した。この年に豊宇介神が天降り御饗を奉った(「倭姫命世記」による)


* 第11代垂仁天皇の後宮として日葉酢媛が迎えられる。他姉妹も妃として迎えられる。

丹波道主命は天皇の外祖父となった。


* 第21代雄略天皇二十一年十月の条(「倭姫命世記」による)
━━倭姫命の夢に皇太神が現れ、「吾が一人でいると、御饌も安らかに食べられない。丹波国与佐の小見比治の魚井原(まないはら)に坐す、丹波道主命の子である八乎止女(娘たち)が斎奉る御饌都神(みけつのかみ)止由居太神(豊受大神)を、我が坐す国に欲しい」と申された。(中略)… 翌年に大佐々命を以て丹波国余佐郡真井原より止由気皇太神を迎へ奉り、度会の山田原に御鎮座なされた…━━

以上が伊勢への遷座までの、ヤマト王権と関わりのある、とりわけ重要と思われるもの。
これ等を見る限り、とりわけ以下の2点がキーとなるように思います。

丹波道主命による奉斎が起源なのか?
*雄略天皇二十二年に何が起こったのか?

[大和国添下郡] 日葉酢媛陵



丹波道主命とその周辺

当企画物記事ではすっかりお馴染みの神。今さら…ですが、私自身でさえもこの神の実態を十分に把握できているわけではなく、まだまだ知らねばならないことが多くあるように思っています。

ここではごく簡単におさらいを、周辺人物を絡めながら記しておきます。

*系譜
父は紀に第9代開化天皇皇子の日子坐王とありますが、同別伝に同じく開化天皇皇子の彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)を挙げています。

丹波道主命日子坐王の子とするのは少々無理があるようにも思われるため、彦湯産隅命の子とするのが妥当でしょうか。いずれにしても開化天皇の孫であり、皇族ということになります。


*丹後平定
第10代崇神天皇十年紀に「四道将軍」として丹波に派遣されたとあります(当時は丹後国が丹波国からまだ分離独立していない)

一方で記には丹波道主命ではなく日子坐王が派遣されたとあり、また「丹後國風土記」殘缺には日子坐王の戦いぶりが詳細に記されています。
記には土蜘蛛である玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ、陸耳御笠)を殺したと記載。「丹後國風土記」殘缺には陸耳御笠との戦いが詳細に綴られています。これは「勘注系図」にも同様の記載。

ただし丹後に於いて日子坐王の痕跡は甚だ乏しく、代わりに丹波道主命の痕跡は充実していることから、実際に派遣されたのは丹波道主命とみて良かろうかと思います。

丹波道主命は果たして陸耳御笠と戦ったのでしょうか。


戦歴が記される唯一の資料である「丹後國風土記」殘缺が、まったく以て信用するに足りないため、文献から得ることはほとんど不可能。
戦歴が伝わる主な社は熊野郡に鎮座する神谷太刀宮。その関連社にもいくつか伝承が見られます。ただし具体的な戦いの様子まではまったく伝わっていません。

伝承等から察するに、熊野郡に於いて戦いがあったのではなかろうかと。「丹後國風土記」殘缺が言うように、加佐郡内での戦歴は完全な創作話の可能性がありそうです。

[丹後国熊野郡] 神谷太刀宮



丹波道主命は熊野郡から

崇神天皇の勅命で四道将軍として丹波へ派遣されたと紀に記載されますが、出身地に就いては言及されていません。

朧気ながら大和から丹後へ派遣されたのではなく、元から丹後にいた、或いは丹波(南部の桑田郡)辺り、但馬国・近江国伊香郡・坂田郡辺りにいたのではないかと考えます。


「丹後国舊事記」には「開化・崇神・垂仁の三朝 熊野郡川上庄須郎(すら)の里に館を造る 丹波道主命は麻須良女を娶る」と記載されます。


その夫婦の居館跡が「王屋敷」として熊野郡に伝承されています。またすぐ近くには川上摩須郎女の墳墓と伝承される芦高神社古墳があり、義父の「川上摩須屋敷跡」も比較的近くにあります。以上から丹波道主命川上摩須の婿養子に入ったものと思われます。


熊野郡には丹波道主命が勧請したと伝わる社が数社見られますが、いずれも八千矛神(大国主命)を祀ったとしており、そこに豊受大神及び同神とみなされる神は一切祀られていません。


[丹後国熊野郡] 「王屋敷」から望む芦高神社古墳(芦高神社)

丹後国と但馬国は和銅六年(713年)に丹波国より分国されました。



川上摩須に就いて
詳細はベールに包まれています。丹後の古代史上、大変に重要な人物(神)ではあるも、丹後そのものへの研究が途絶えかけているためか、話題にすら上っていないように見受けられます。

上記のように丹波道主命の妃である川上摩須郎女の父。孫に垂仁天皇へ後宮入りした日葉酢媛や妃となった姉妹たちがいます。第11代垂仁天皇の外祖父の義父。相当な権勢を有したものと思われます。

俗に「丹後王国」と呼ばれる勢力があったとも言われ、丹後に注目が集まった時期もありました。これには否定的な見解も多くありますが、その是非はさておき、それに類いし得る巨大勢力が丹後にあったと考えているため、当ブログでは「丹後王国」と、そのままにその呼称を使っています。
そこでは5代に渡り「丹後国王」が存在したとされています。これは門脇禎二氏によるもの。

初代 … 由碁理

2代目 … 竹野媛(タカノヒメ)の兄または弟
3代目 … 日子坐王
4代目 … 丹波道主命
初代と4代目以外は甚だ怪しいものですが…。3代目の日子坐王は省かねばならないでしょうし2代目の「竹野媛の兄または弟」というのも事蹟どころか伝承すらも無く、名前すらも不明といったもの。第5代目の朝廷別王も穂国造(参河国造)に任命されていること等から、こちらも疑ってかかる必要があるかと思います。

初代の由碁理は、ヤマト王権でも活躍した武諸隅命と同神ではないかと考えます。崇神天皇六十年に出雲国の神宝を見たいと言った天皇の勅命により派遣されています。
この由碁理(武諸隅命)川上摩須とが同神である可能性を考えています。「勘注系図」によると由碁理の別名として彦由麻須命という類似神名を挙げているのもその理由の一つ。


拠点としていたのは上記の通りに熊野郡。「川上摩須屋敷跡」伝承地があり、すぐ近くに唯一川上摩須を御祭神とする衆良神社が鎮座(川上摩須が勧請し豊宇氣持命を祀るとも)。そしてほど近くには丹波道主命と川上摩須郎女夫婦の居館跡と伝承される「王屋敷」があり、その目と鼻の先には川上摩須郎女の墳墓と伝承される芦高神社古墳があります。


[丹後国熊野郡] 衆良神社



丹波道主命と海部氏
熊野郡と言えば海部氏(アマベウジ)の出身地でもあります。海部氏とは熊野郡「海士(あま)」から奈良時代に與謝郡へと移住し籠神社を創建、以降代々現在に至るまで社家を務める氏族。

「海士」には彦火明命六世孫の神服連海部直(建田背命)の居館跡「六廻宮」があったと伝わります(矢田神社境内または近隣)

建田背命の子は武諸隅命。もし武諸隅命と初代丹後国王とされる由碁理と同神であるとするなら、また川上摩須とも同神とするなら、元より丹波道主命と海部氏とは同族であったが、その結び付きはより強固なものとなったのではないかと考えられます。


[丹後国熊野郡] 矢田神社




*熊野郡から丹波郡へ

丹波道主命は熊野郡から丹波郡へと居を移したようです。現在の京丹後市峰山町「二箇」の地にある「船岡山」(文献には「府の岡」と見える)に居を構えたという記事が見られます。現在は頂に船岡神社が鎮座、丹波道主命が祀られています。


こちらでは娘の八乎止女(日葉酢媛等姉妹)が豊受大神を齋祀ったと伝わります。ここで初めて豊受大神を祀ったという記録が現れます。


この地は豊受大神が初めて降臨したという「比治山」の麓。「比治山」の候補地は2ヶ所あります。「磯砂山(いさなごやま)」の北麓、その間には藤社神社が鎮座。一方の「久次岳(ひさつぎだけ)」東麓その間には比沼麻奈爲神社が鎮座。あらゆる文献資料や地元伝承等から鑑みて、藤社神社が妥当ではないかと察せられます。


また「船岡山」から東方200~300mほどには「月の輪田」(稲作発祥の地)という、保食神(豊受大神)が天照大神のために、初めて籾種を蒔いて稲作をした場所と伝承されています。

つまり丹波道主命がこの地で、奉斎する神を八千矛神(大国主命)から豊受大神へと乗り替えたように見受けられます。

なお上記の神社及び史跡はいずれも、「竹野川」へと注ぎ込まれる「鱒留川(ますどめかわ)」沿い。この「鱒(ます)」は川上摩須の「摩須」ではないのかという思いも。

そうすると川上摩須は熊野郡のみならず、丹波郡の「鱒留」をも支配していたのでしょうか。


[丹後国丹波郡] 藤社神社




*熊野郡・丹波郡・竹野郡

丹波道主命及び川上摩須により支配地は熊野郡と丹波郡となりました。一方で北の竹野郡は竹野媛等が支配していた地でした。


竹野媛とは初代丹後国王とされる由碁理の娘。また第9代開化天皇の妃であり、丹波道主命の祖母でもあります。

おそらくは巫女(シャーマン)であったのだろうと思われます。門脇禎二氏が唱えた「丹後王国論」で、第二代丹後国王とした「竹野媛の兄または弟」というのは、おそらくは「ヒメヒコ制」によるもの。祭政一致の上古に於いて、「祭」を竹野媛が担い「政」を兄または弟が担ったというもの(当時は「祭」が上位)


上述の通りに「由碁理武諸隅命川上摩須」とするなら、既に三郡支配の体制が出来上がっていたのかもしれません。


竹野郡内を流れる「竹野川」の上流に丹波郡があり、古代は河口の入り江が丹波郡の中心部まで広がっていたとされます。つまり竹野郡と丹波郡とは同じ文化圏。一括りに見てよいかと思います。


既に丹波道主命は四道将軍として崇神天皇より丹波へ派遣されたとあるものの、大和から派遣されたのではないという可能性を提示しておりました。元々竹野郡或いは丹波郡を拠点としていたのかもしれません。


[丹後国竹野郡] 竹野神社・齋宮神社

右殿(向かって左)が竹野媛が晩年に故郷へ戻り天照大神を奉斎したという竹野神社。左殿(向かって右)が日子坐王等の開化天皇皇子たちを祀るという齋宮神社。



大宮賣神社と豊受大神の奉斎

熊野郡で八千矛神を奉斎した丹波道主命が、丹波国に移り豊受大神を奉斎したということは、それ以前より丹波国や竹野郡では豊受大神を祀る地であったということでしょうか。


このことを明確に示すことのできる資料なり遺跡なりは存在しません。丹波郡の全式内社が豊受大神(同神とされる神々を含む)を祀るとはいっても、「延喜式神名帳」が編まれたのは平安時代中期のこと。特定の域内の軒並み祭神替えが行われたなどということはしばしば見受けられることでもあり、これを以て決め付けるのはあまりに不用意。


この課題に対して唯一の導きを与えてくれそうなのが、大宮賣神社


丹後国二ノ宮でありながら、本来は一ノ宮となるべき存在であったと当ブログ内で常々語っている社。式内名神大社。

弥生前期からの祭祀跡がはっきりとみられ…公にはできませんが、日本古代史を覆しかねない祭祀跡までをも有しています。


主祭神は大宮賣神という謎深き神。「宮中八神」の一座であり、また「造酒司坐神六座」に「大宮賣神社並大 酒殿神社並小…」とあります。さらに「延喜式」祝詞には、大宮賣神などの三神が親王や諸王等皇族が過ちを冒さないように見守る神として、斎部氏が奉斎した神とあります。謎でありながらも朝廷にとっては甚だ重要な神として崇められています。


大宮賣神は斎部氏(忌部氏)が奉斎した神であるということからも、天鈿女命(アメノウヅメノミコト)ではないかという説が根強くあります。丹後に於いては斎部氏の痕跡が非常に乏しく、こればかりは是とも非とも言い難いところ。


肝心な点はこの神こそが丹後の神であったのではないかということ。
大宮賣神社の扁額には「大宮賣神」と「若宮賣神」と併記されています。伝承によると、四道将軍として派遣された丹波道主命が崇神天皇十年に「若宮賣神(=豊受大神)」を併祭したとのこと。
これを史実とするなら、竹野郡・丹波郡を奉斎していた部族は大宮賣神を祀っていたが、丹波道主命が入植して以降は豊受大神が祀られるようになったということになるでしょうか。

[丹後国丹波郡] 大宮賣神社

扁額の写真は上部に有り





今回はここまで。

丹後古代史を一から洗い直すほどの勢いとなっていますが、これは想定内。

だから放置してしまってたのですが…。

記事作成にまる4日ほどかかってしまい、
せっかくできた予約投稿記事が枯渇。

また一から頑張ります。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。
*一部の許可している方を除き写真・文章の無断使用や転載を禁止致します。リブログ等にてお願いします。