新井崎神社
(にいざきじんじゃ)
丹後国與謝郡
京都府与謝郡伊根町新井
(P有)
■旧社格
村社
■祭神
事代主命
宇迦之御魂神
徐福
丹後半島のもっとも東側、若狭湾に張り出す断崖絶壁の海の際に東面して鎮座する社。伊根町「新井(にい)」の最東端、「新井崎」に鎮座します。
◎「新井(にい)」は「丹生(にふ)」からの転訛でしょうか。「丹後舊事記」には「子の日崎(ねのひさき)、俗に新井と云ふ」と記されています。北辰信仰の影響が見られる宇良神社(浦嶋神社)とは祭を共に行ったりと関連がみられ(宮司は両社を兼務)、「子(ね)」は文字通りに「北」を指している可能性もあると考えています。
◎創建は10世紀頃とされていますが詳細は不明。御神体は木像約30cmほどの男神・女神像であるとのこと。製作時期は不明。
「伊根町誌」はかつて三宝荒神を祀る社であったとしています。当社より西方500mほど、「蝙蝠岳」の麓に三柱神社が鎮座。こちらは当社の元宮と伝わり、かつては「三宝荒神社」と称されていたとのこと。火産靈神を主祭神とし、奥津彦神・奥津媛神を配祀。
当社の注目すべき点は徐福上陸伝承地の一つであることと、「冠島・沓島」がもっとも近く見えること。◎当社は古来より徐福を祀る社として広く知られ、境内から岩場を下っていくと「経文磐」と「徐福上陸伝承碑」があります。
徐福は紀元前221年、第七代孝霊天皇の時代に秦の始皇帝が不老長生の神薬を求め、方士であった徐福がこの地を易筮によって予知し漂着したと伝わります。漂着したのは新井崎の「ハコ岩」。長旅と波浪によって疲れ果て岩の上で休んでいるところに邑長が来意を聞くと、徐福は「始皇帝の欲している仙薬を求めて来たが、眼前にある仙薬は少なく、得られなければ秦の都威陽宮に帰ることは許されない」といってこの土地に住み着いたとのこと。この地で徐福の求めた神薬とは「九節の菖蒲と黒茎の蓬」(からよもぎ)とされています。徐福はその後、邑長となり里人から慕われ死後産士神として奉祀されるに至ったとのこと。
◎各地に伝わるという徐福伝承は甚だ疑わしいものが多く、伝承を創作して村おこしに利用されたら例も多くあるとされます。そもそも日本へやって来たのかどうかも怪しいところ。各地の伝承は富士吉田神社所蔵する古文書と内容は一字一句まったく同じもの。ただし当社のみがそれに付加された内容が伝わっています。
◎各地に伝わるという徐福伝承は甚だ疑わしいものが多く、伝承を創作して村おこしに利用されたら例も多くあるとされます。そもそも日本へやって来たのかどうかも怪しいところ。各地の伝承は富士吉田神社所蔵する古文書と内容は一字一句まったく同じもの。ただし当社のみがそれに付加された内容が伝わっています。
もし本当に上陸したとするなら、船を停めるような湊はなく上陸というよりは難破し漂着といったところでしょうか。
◎「丹哥府志」によると、かつては「童男童女宮」と称されていたとのことで、これは徐福が秦より引き連れて来た童男童女を指すのではないかと思われます。
◎もう一方の「冠島・沓島」に関しては御本殿がその方面を向いており、明らかに意識して建てられていることが窺えます。「冠島」は籠神社の奥宮とも捉えることができる神島。春秋分の日には、当社鳥居の中に見える「冠島」から朝日が昇るようです。その霊地として当社地が選ばれたことと思います。
また背後の山は「蝙蝠岳(こうもりたけ)」(標高313m)と称されているようですが、これは「神守」或いは「神籠り」からの転訛であろうと考えられています。
◎崖を構成する磐々は黒く、おそらく火山岩によるものかと思います。これが何らかに使用されたのかどうかは分かりませんが。
また土壌は濃い粘土質の赤褐色。鉄或いは水銀が一帯で採取されていたのではないかと思う次第。
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