*本書の發行は昭和二年。本書に準ひなるべく記事内すべてに文語體、舊字體(旧字体)を用ゐるやうに心掛けて居ます。文語體を學びつつ記事を起こしてゐる爲、誤用が多々あるかと思はれます事を先に御詫び申上げます。
◎天武・持統天皇の異常なりし崇拝
まだまだ此の時代に至つても、「クセの強い」天皇が多いのですが…(個人的にこのやうな方を大變好みます)
天武・持統天皇(夫婦)もなかなかに「クセ強」。他天皇と異なる點(点)は、夫婦ともに天才ぶりが突出してゐること。日本史上最強であつたやうに感じて居ます。
私自身が両帝に對して抱く、三大「クセ強」政策等は以下の三點。
*異常なほどに「中央集権國家」に拘つた
*異常なほどに「吉野宮」へ行幸した
*異常なほどに「龍田の風神」と「廣瀨の大忌神」を奉つた
一つ目は本題ではないのでまあよいでしやう。決して独裁政治ではなく、天皇に絶對的権力を持たせ、天皇中心の政治を執り行いました。
尚、當ブログでは一般の見識とは異なり、天武天皇を持統天皇が操つてゐたと考へて居ます。
二つ目も本題ではないのでまあよいでしやう。行幸回数は驚愕の31回!「吉野宮」は持統天皇自身が原點に戻られる地であつたやうに思ひます。
三つ目。天武天皇四年(675年)以来、毎年四月と七月の年に二度も両社への奉幣が行われ續けました。よつぽどのことであつたのでしやう。以下に其れを記してゆきます。
此等の神名の「ウケ」は食物の義であつて、「ウカ」は其の轉訛。そして「ケ」は「ウケ」の畧語であると。此に「豐」「大御」「大」の如き敬稱、若くは生成の義の「稚」を冠し、更に下に助詞の「都」を介して、「姫」「御魂」の如き語に接して、それぞれの神名が成立してゐるから、此等は悉く穀物の神であるとしています。
こちらでは「ウカ」「ウケ」から此等の神の名義を捉へるのが主題ではない爲、又大氣都比賣神に就いては触れてしまうと到底一記事どころで収まり切らない爲此れ以上は触れません。
◎水神としての神格
上記のやうに廣瀨大社(廣瀨神社)の鎭座地は、大和盆地内の主要河川が一気に集結して居ます。そのやうな地は稻作にはこの上ない恵みを享受できます。然し其の反面、大洪水を引き起こされ、ヒト・モノ、村の全てを失う可能性すらあります。
このやうな場處では「水神」が祀られるのは至極当然の事。當社御祭神が「水神」としての神格を有するといふ事は古來より指摘されて來ました。
ところが「水神」となると、通例では罔象女神(ミヅハノメノカミ)や市杵島姫命、高龗神(タカヲカミノカミ)等が、龍神や水雷神として祀られるもの。豐受姫命等の穀靈神が祀られる事はありません。
当社御祭神を「水神」とする事に違和感を抱きます。式内社或ひはそれに準ずる神社の中で、此のやうな事例は唯一なのかもしれません。
翻つて言ふなら、當社の眞の御祭神は「和加宇加乃賣神」ではない、若くは「水神」が「和加宇加乃賣神」に取つて替わられたとみるべきでしやう。
◎「大忌神」とは
廣瀨大社(廣瀨神社)の樋口宮司は以下のやうに解して居ます。
━━山や谷から下ってくる水は荒々しい水である。それを廣瀬の神様は受けて、良い水として大和平野に配る。山々からザーっと流れてくる水を受けて穏やかな水にして流し、人々の暮らしを守ってくださる。それが廣瀬の水神信仰です。これが「大忌神」である━━(現代語表記とした)
「忌」といふ語の意義は現在に於ては「忌み嫌ふ」等といつたやうに、「嫌つて避ける」「穢を憚る」となつて居ます。然し元々の意義は「清楚」であり、「神に對して身を清め穢を避けて慎む事」等の意義に用ゐられて居ました。
両方の意義に使われて居た語が、平安時代頃から前者の意、卽ち「忌み嫌ふ」のみに用ゐられるやうになつたのです。忌部氏が斎部氏と表記を變へた理由も其の一つ。
天武天皇・持統天皇の飛鳥時代には未だ前者の「忌み嫌ふ」といふ義はなかつたと考へます。卽ち「穢を祓ふ神」であつたと。
宮司の解釋は勿論其の通りではあれど、立場上故か踏み込んだ説明は一切なされてゐません。従つて此方で踏み込んだ解釋を行ふのであれば、「大いに穢を祓ふ神」であると。
「大いに」といふ語が肝要かと考へます。何に對して「大いに穢を祓ふ」必要があつたのでしやうか。
◎「龍田の風神」と「廣瀨の大忌神」
両社をセットで考へねば答へは見へてきません。「廣瀨の大忌神」は悪神とされた「龍田の風神」を「忌」する社であつたのです。だから必ず年二回、同日に両社の奉幣がなされたのです。
では何故に「龍田の風神」は悪神となつたのか。其れは「龍田風神祭」にて記されて居ます。
━━民の耕作したものが草の片葉に至るまで生育しないことが、一年二年どころではなくずつと續いて居る。それで崇神天皇が「誓約(うけひ)」を行ふと天乃御柱乃神・國乃御柱乃神といふ「風神」が現れた━━
此れは暴風による田への被害が甚大である事を物語つており、然も其れが何年も續いて居たと。其の暴風を起こしてゐたのが天乃御柱乃神・國乃御柱乃神といふ「風神」であつたとのこと。此の「風神」は所謂「龍田大神」と稱されました。
此の説話は創作されたものであると言へます。此の辺りでは六世紀頃に「たたら製鉄」が始まつたとされ(實際はもつと早いと考へてゐる)、其れには暴風が不可欠。崇神天皇の頃に始まつてゐたのかは不明であるも、嘗ては「暴風」が大變に喜ばれたもので、且つ不可欠なもの。つまり「暴風」を起こす「風神」は大變に有難い神であり、篤く祀られてゐた事でしやう。
然しながら此の地で「たたら製鉄」が衰退し、やがて「暴風」は稻作にとつては厄介な存在へと變化し、「風神」は悪神と成り果てたのです。
此の悪神の「祓」を行ふのが、大忌神であつたわけです。
◎都を守る目的
天武天皇は紀に「天文・遁甲を能くし…」と記されます。此れは少々大雑把に言ふと「占星術」のこと。だうやら此の時代の第一人者級の習熟度であつたやうに思われます。豪傑・大胆不敵な人物像の印象があるも、非常に聡明であつたやうです。
持統天皇が彼をこよなく愛し慕つた(想像ですが…)故であらうかと。そして此の類い稀なる異才を上手く導いたのであらうと考へて居ます。
此の事を念頭に置ひて…
樋口宮司はさらに續けます。先ほどの立場上を考慮した無難な表現とは異なり、此処では踏み込んだ表現を爲されて居ます。
━━二社は飛鳥の都からは10km以上は離れています。ですが特には河内国から大和への玄関口にあたり、ひいては当時緊迫していた朝鮮半島からの玄関口にもあたります。これは大阪湾から「大和川」を遡ってきたところのもの。「災いが出入りする方角」(陰陽道で言う「天文」の方角)に祀ったといえるのではないかと思います━━

今回は此処まで。
此の事を踏まへて「廣瀨大忌祭」「龍田風神祭」の實際の「祝詞」へと進みます。
まう一記事を挾むのですが…。






