
「阿蘇ピンク石」製石棺の蓋
◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (31)
前回の記事をUPしたのは
令和五年
(2023年)11月のことでした。
ずいぶん放置してたな…。
復活させます。
この企画物記事の主旨は…
「阿蘇ピンク石」製の石棺が5世紀末頃に畿内に忽然と出現します。
大和国の「二上山」製のものや、播磨国の「竜山石」等の良質なものが豊富にあるにもかかわらず、遠路遥々と「阿蘇山」産出の石材が使われた、その謎を紐解くもの。
これまでに発見された大和国内の「阿蘇ピンク石」製の石棺をすべて拝し終え、軽い気持ちで始めたのですが…
想像の遥か斜め上を行く、
古代史上の壮大なスケールの物語だったのです。調べれば調べるほど実に面白い。
一通り下調べ的なことを終え、
まとめ的な段階に入ろうと考えていましたが、
自身の体調の問題、転職等のドタバタがあり
また一通り終えたと思っていた下調べ的なものが、実はまだまだ不十分であったことも発覚。
手に負えなくなり
放置し続けておりました。
この企画物をスタートさせたことで
自身のレベルが飛躍的に向上。
意を決して再び挑みます。
ぼちぼちと…無理し過ぎない程度に…。
一先ず今回は
これまでの軽いおさらいから。
■これまでの簡単な「おさらい」
2年半近くも放置していたにもかかわらず、さらっと続きを始められるほどの強引な気質は持ち合わせておりません。おさらいからぼちぼちと始めます。
◎大王の棺
真の継体天皇の墓とされる
今城塚古墳の近くで石橋に利用されていた石棺片が、「阿蘇ピンク石」製であることが判明しました。また改葬前の推古天皇の墓ではないかとされる
植山古墳も「阿蘇ピンク石」製の石棺であることが判明しました。
これ等が契機となり「大王のひつぎ」と呼ばれ、俄に注目を浴びることとなりました。
◎「阿蘇ピンク石」とは
ピンク色に発色した石。石棺に利用される加工しやすい「凝灰岩」の一つ。これは約9万年前の「阿蘇山」噴火によりできたもので、「阿蘇溶結凝灰岩」(阿蘇石)は九州一帯から一部は山口県にまで分布します。
そのうち「阿蘇ピンク石」は、熊本県宇土市(うとし)網津町の馬門(まかど)地区で産出されるもの。全体の1%ほどのようです。
「阿蘇溶解凝灰岩」はほとんどが灰色。そのうち宇土市産出のものは、希にピンク色やベージュ、茶色などに発色するものがあります。ピンク色に発色したものが「阿蘇ピンク石」なのです。

[大和国添上郡]
野神神社古墳「阿蘇ピンク石」製石棺
◎肥国から大航海を経て畿内へ
平成十六年(2004年)に2年がかりで古代の大航海の様子が復元されました。
石棺文化研究会・(社)熊本青年塾・読売新聞社・宇土市が実行委員会となり、実際の石材伐り出しから
今城塚古墳への陸路搬送まで。輸送船も船型埴輪から復元し、ほぼ完全復元といっても良いかと思います。
およそ30日間の航海。古代には40~50日間はかかったのではないかと見積もられます。また陸路搬送が予想外に大変であったことも。

[日向国児湯郡] 西都原古墳群170号墳出土 船型埴輪 (航海実験のモデルとなった) *画像はWikiより
◎相次ぐ「阿蘇ピンク石」製石棺の発見
それまで「二上山凝灰岩」製石棺とみられていたものが、相次いで「阿蘇ピンク石」製石棺であることが判明しました。
これまでに近江国2・山城国1・摂津国2・河内国3・大和国7・備前国1の計16例が判明しています(資料により差違がみられるが総合判断して取りまとめたもの)。
ほとんどが5世紀第4四半期~6世紀第2四半期のもの。一部に4世紀中頃、6世紀第3四半期のものがあります。
*詳細は
第2回目の記事にて
◎紀氏・息長氏が関与したのか
「阿蘇ピンク石」製石棺を調べれば調べるほどに
紀氏・息長氏の関与が明らかになってきます。特に紀氏の関与が鮮明に。
紀氏には2系統があります。「紀直(キノアタヒ、紀伊国造家)系」と「紀朝臣系」。出自の異なる別氏族。ただし「紀朝臣系」である武内宿禰は母が「紀直系」、従って同族とみなすことも可能であるかと。実際に残存する紀伊国造家系譜には、「紀朝臣系」の人物も含まれており、嫡子不在の場合には「紀朝臣系」が立てられていたのではないかとされます。
その「紀直(紀伊国造家)」は、来目部を率いて神武東征の先導役を担ったという天道根命を始祖とする氏族。神武の大和平定後に紀伊国造に任命されたとあるも、おそらくその祖先たちは約7000年前に起こった「阿蘇山大噴火」により逃げ落ちた人々と考えています。
彼等は焼畑農業を行っていた「山祇族(やまつみぞく)」。火神である安牟須比命(=香都知命=天雷命=カグツチ神)を一族の象徴として、天石門別安国玉命(=天手力男神=麻戸明主命=多久豆魂命)を始祖として崇拝していたのだろうと思われます。
「紀ノ川」(大和国内では「吉野川」と呼ぶ)流域で数多く祀られる国樔神(クズノカミ、=九頭神=葛神=国栖神=屑神=磐排別神)も天石門別安国玉命と同神。
一方で神武東征に来目部を率いて先導役を務めた天道根命が、この地に合流し融合したものと解釈しています。かつての根拠地は「球磨川」沿いの人吉盆地であったと考えます。そこから北上したものか、或いは神武軍が南下してきたのか、合流し皇軍の将軍として大功を果たしました。
紀伊国造家はヤマト王権の支配下の元で支配力を高めました。日前神宮の創建に至り、その社家を専任する言わば祭祀氏族となりました。
日前神宮は三種神器の「八咫鏡」のレプリカを御神体とする社。これの意味するところは、伊勢神宮が創建に至るまでの間は、「八咫鏡」が万が一消失や略奪等があった際にはこのレプリカが「八咫鏡」となるということ。その重責を担う氏族であったということになります。
[紀伊国名草郡] 日前神宮
*現在は境内撮影禁止、昔の写真を掲載します(2000年頃に撮影したものと思います)。
◎同族、関連氏族の伸長
国樔(「国栖」等)たちは雄略天皇の吉野宮行幸に際し饗応したことや、天武天皇の御前で「国栖奏」を奉納したこと等が記録されています。これはおそらく「阿蘇山」大噴火で逃げ落ちた人々の裔によるものであろうかと。
一方で紀朝臣系や大伴氏は積極的な国家政策関与が窺えます。
紀朝臣系の断トツ著名人物は武内宿禰。上記通りに父は紀朝臣系、母は紀直(紀伊国造家)系と両家系に跨がっています。「阿蘇ピンク石」が息長氏に大いに関わるのは、この神の影響力が働いたのが大きな理由の一つ。
大伴氏に就いては、「阿蘇ピンク石」製石棺の流行が継体天皇の陵墓を契機となったと考えていますが、継体天皇擁立に最も働きかけたとされるのが大伴金村。
他にも関連氏族として、阿蘇氏や吉備氏、船木氏、紀伊忌部氏、丹生氏等の同族または関連氏族が大いに伸長しました。
大伴氏・久米氏が製鉄鍛冶を担っていたことは、神武東征の大功として大和国高市郡の「鳥坂」の地が与えられたことからも理解されようかと。一般に「鳥取」「鳥坂」は鳥取氏の拠点であったと理解されます(「鳥取氏」を「鳥坂氏」と重複または錯誤して記述する文献があまりに多い)。一方で来目氏は東隣の「来目邑」(久米邑)を拝領しました。
これ等氏族の伸長が、「阿蘇ピンク石」製石棺の実現に寄与したのであろうと考えています。

◎なぜ「阿蘇ピンク石」なのか
遠路遥々と瀬戸内海を横断し、1~2ヶ月の航海と数10日の陸路搬送が繰り返し行われました。近くには大和と河内の境の「二上山凝灰岩」や、播磨の「竜山石」などの良質な石材があるにもかかわらず。実際にこのわずか100年余り以外はそれらが用いられていました。
その理由は大なり小なりいくつか考えられますが、とりわけ主要なものと考えるのは以下の3点ではないかと。
* 武内宿禰を契機として、一族のルーツである肥国の石材を求めた。
* 「筑紫磐井の乱」の終結。
* 額田部氏の関与
一つ目に就いては、武内宿禰の出生地若しくは育ちの地である肥国から選ばれたということに留まらず、母方のルーツ、つまり大伴氏・来目氏のルーツである肥国から選ばれたということではないかと。
大伴氏・来目氏のルーツであることは過去に十分に記してきましたが、武内宿禰の出生地若しくは育ちの地であることはまだ不十分。次回以降に記すことにします。
*二つ目に就いては、既に
第6回目の記事にて記しています。ところがこちらもまた不十分。次回以降に記すことにします。
*三つ目に就いては、これまでまったく触れていないように思います。これが露呈したことをきっかけとして、また他にも不十分であったことが次々と露呈して、二年半近く当企画物記事を放置してしまうこととなりました。こちらもまた次回以降に記すことになります。
これまでの経緯からすると…
紀氏・大伴氏・来目氏を知ることにより、自身の古代史への知見レベルが一気に向上しました。そのせいで「阿蘇ピンク石」製石棺よりもむしろ、そちらの探求に傾き過ぎていたように思います。
今後は自身が掲げる上記の主要な3点を中心に進めていく予定をしております。

宇土市沖合いの「風流島(たはれじま)」
*画像はWikiより
今回はここまで。
「おさらい」であるため
サクッと記事を書き上げられるかと思っていましたが…大間違いでした。
やはりブランクは大き過ぎた…。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。
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