奈文研 藤原京跡資料館に展示の持統天皇像







◆ 「真の持統女帝」顕彰
~反骨と苦悩の生涯~ (33)






またまた…少々間が空いてしまいました。

個人的にお気に入りの企画物。
なるべく終わりを少しでも引き伸ばそうという…要らぬ思惑がはたらいております。



ところで…
近頃は有能な女性政治家が次々と台頭しているようですが…。

鸕野讚良(持統天皇)
高市総理と片山大臣とを合わせて、さらに10倍増強させたような存在であるのかなと思ったりもしてみたり。

悟空とベジータがフュージョンして、
さらに「10倍界王拳」を使った?(笑)


とりわけ高市総理と片山大臣の能力が非常に高く、傑出した存在であるのはもちろん承知のこと。
それでも鸕野讚良の有能ぶりがあまりに高過ぎて…。

私が思う「日本史上断トツに有能な」政治家。
これほどの英傑はもう二度と現れないのでしょう。


いや…高市総理は
鸕野讚良の生まれ変わりやったらええね。

同じ大和であり、
鸕野讚良が過ごした地と同じ「高市」姓でもあるわけやから。


もしそうなら…
もっともっともっともっともっと…
頑張って頂きましょう!

(そのためにもお身体をお大事にされつつ…)




政治のことをブログ内で語るなど
愚の骨頂であることは承知しており、
その程度のブログにはしたくないと思ってはおりますが…。


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「藤原宮」 奈文研「藤原京跡資料館」より




■ 藤原京での執政 3

◎持統天皇十年(696年)八月二十五日

━━多臣品治(オオノオミホムヂ)に直広壹、並びに賜物を授けた。元(はじめ)より従い、関を固く守ったことを褒めた━━


「直広壹」は冠位四十八階の中では上位十番目の高位。「壬申の乱」では不破関を塞ぎ、東国の兵力を結集させたこと等が評価されていました。当時からの功労者に対しての褒賞。死去説もありますが。


◎持統天皇十年(696年)九月十五日


━━直大壹を若桜部朝臣五百瀬に贈り、並びに賻物(ふもつ、香典のようなもの)を賜った。元(はじめ)より従った功を顕した━━


「直大壹」は冠位四十八階の中では上位九番目の高位。「壬申の乱」では東国の兵力を集める使者となりました。当時からの功労者に対しての褒賞。


◎持統天皇十年(696年)十月十七日・二十二日


━━右大臣の丹比眞人(タヂヒノマヒト、丹比眞人嶋と思われる)に輿・杖を与えた。
假に(一時的に)正広参位右大臣 丹比眞人に資人(従者)百廿人を賜った。正広肆大納言 阿倍朝臣御主人(アヘノアソミミヌシ)・大伴宿禰御行(オオトモノスクネミユキ)には八十人、直広壱 石上朝臣麻呂・直広弐 藤原朝臣不比等には五十人を賜った━━


「壬申の乱」からの功臣に手厚く、また以降の功労者に対しても一気に褒賞が行われました。そして丹比眞人嶋が「右大臣」という当時の最高位に昇進しました。

これは皇位継承を予定していた高市皇子(→ 前回の記事参照)の薨去により、方針が決まった、即ち決意が固まったことによるものではないかと考えます。




◎持統天皇十一年(697年)春一月七日・十六日


━━春一月七日、公卿大夫(まへつきみ)に内裏で宴を賜った━━

━━ 一月十六日、百官(つかさつかさ)に宴を賜った━━


一月七日の宴は後の「白馬の節会(せちえ)」に繋がるものかと思われます。天武天皇の時代から毎年正月七日に恒例となっていたもの。

一月十六日の宴は「蹈歌(とうか、あられはあしり)の節会」。こちらは持統天皇七年より毎年正月十六日に恒例となっていたもの。




◎持統天皇十一年(697年)四月七日


━━吉野宮へ行幸した。

使者を遣わし廣瀬大忌神龍田風神を祀らせた━━


とうとう同日に行っちゃった。

この日が「吉野宮」への最後の行幸となりました。


一覧表にしておいた方がいいかな?

それともあまり意味を為さないかな?

一覧表にしているサイトも多々見受けられ…ちゃっかりコピペさせて頂くだけのことですが。



「吉野宮」が営まれたとされる「宮瀧遺跡」




◎持統天皇十一年(697年)六月六日・十六日・十九日


━━六月六日 京畿(うちつくに)の諸寺に詔し読経させた。六月十六日 五位以上を遣わし京の寺を掃い清めた。六月十九日 神祇に幣を班ちた(あかちた)━━


これまでもこういったことは度々行われてきました。特に仏教関連の執政は極力掲載しないようにしてきましたが。ここではわずか二週間で一気に執り行われたということが注目されるのではないかと。いよいよ持統天皇の重い決断が…。




◎持統天皇十一年(697年)六月二十六日


━━公卿(まへつきみ)百寮(つかさつかさ)は初めて天皇の病の為に仏像を造った━━


持統天皇はこの時51歳、当時としてはかなり高齢。病に罹ったようです。強い女「女帝」であるがこそ故の鸕野讚良(持統天皇)。既に決断は為されていたのでしょうが、それを決定付けるものとなったかもしれません。


ただしこの記述を巡っては、薬師寺(元薬師寺)という仏教施設との関連も合まり、一筋縄ではいかないようです。持統天皇の病というのは皇后時代のものとする見解もあるようです。仏教に関わることなので、ここでは立ち入りません。




◎持統天皇十一年(697年)七月十二日


━━使者を遣わし廣瀬大忌神龍田風神を祀らせた━━


毎年四月と七月の年二回続けてきた、これが持統天皇在位最後の二社への派遣となりました。


[大和国廣瀬郡] 廣瀬大社(廣瀬大忌神)


[大和国平群郡] 龍田大社(龍田風神)




◎持統天皇十一年(697年)八月朔日


━━天皇は策(みはりこと)を禁中(おおうち)に定め、天皇位を皇太子に禅譲した━━


ついにこの日がきました。軽皇子(即位し文武天皇に)に皇位を継承し、自らは上皇となりました。これは史上初の院政。


草壁皇子の第一子。まだ14歳であったため持統上皇となりました。ちょうど15歳に即位となるように合わせたようです。母は安陪皇女(後の元明天皇)

そもそもは…
天武天皇の次代は実子である草壁皇子であったのが早世。大津皇子も謀反未遂から自害。そして鸕野讚良が即位(ただし当初から鸕野讚良が即位するつもりであったと考える)。さらに高市皇子すらも薨去。

草壁皇子の薨去してからは、この日を待ち望んだことでしょう。ようやくこれで自身が願う道筋が敷かれたと。既に安定政権であり、自身の目の黒いうちは安泰であろうと。





今回はここまで。

遂に…
「日本書紀」の記述はこれが最後。

持統天皇が軽皇子に皇位を禅譲し、上皇となったところで「日本書紀」は幕を閉じます。

終わってしまったな…。

この企画物の今後をどうしようかと思案しておりましたが、鸕野讚良の最期までを見届けようとの思いから、もう少し続けます。

これ以降は「続日本紀」に著わされるわけですが…これまで同様に現代語訳から行うのか、どうするのかは未だ決めかねております。



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