前回の記事では「朝日長者伝説」というものが登場しました。
私が本書を手にした20年ほど前には知らなかったこと。他にも御存知ない方もあろうかと、それが何なのか、人名事典や百科事典等から引用しておきました。
このシリーズ企画には珍しく
少々反響もあったようでして…
「朝日長者伝説」に関わるお話しが続きます。
第二部 古代社会の原像をもとめて
第一章 垂仁帝の皇子たち
■ 小野氏と一体の猿丸もまた金属とゆかりをもつ
冒頭より柳田國男氏の「神を助けた話」の中から、下野国河内郡の「日光二荒(ふたら)」の説話の一説が引用されています。
━━昔、有宇中将が奥州へ下って朝日長者の娘を妻とし、その間に生んだ子が馬主である。また馬主が成長して侍女に子を生ませた。小野に住んだので小野猿麻呂という。この猿麻呂の祖父母は死んで二荒の神となった。二荒の神は上野の神の赤城の神と湖水をあらそった。二荒の神は自分の孫の猿麻呂が弓の名手であることを教えられて、その加勢を頼みに奥州の熱借山(あつかしやま)にいって、狩をしている猿麻呂をともなって帰った。そうして二荒の神は蛇、赤城の神はムカデの姿となってたたかったが、猿麻呂はムカデの左の目に矢を射てこれを走らせたという話しである━━
◎ムカデと金属
秩父は自然銅の産地であるが、聖神社は15kgもある自然銅が御神体。背後の山にはその採掘跡があるとのこと。御神体とともに元明帝から下賜されたという銅製のムカデニ匹があるようです(未参拝)。
この社には以下の碑文があるとのこと。
━━元明天皇の御代慶雲四年武蔵国秩父郡黒谷村より吾国にて始めて自然銅を発見し、国司を通じて、これを帝に献上せり。帝は深く喜ばれ年号を和銅と改め、和銅開珍(原文まま)と称する通貨を発行し、広く臣下に通用せしめ、又勅使多治比真人三宅麻呂(タヂヒノマヒトミヤケマロ)を特にこの地へ遺し、自然銅を以て製したる蜈蚣(むかで)一対を下賜せられたり。当神社はこの歴史的由緒ある自然銅を主祭神として祀り、更に金山彦命、元明金命を合祀し、父母社と称して蓑山十三谷の総社とせしが、後聖神社と改むと伝へられる━━(梅原猛「羊太夫の伝説」「塔」所収)
ムカデが金属と関わりあるというのは、ムカデが毘沙門(多聞天)の使いに由来するとされます。若尾五雄氏はムカデを鉱脈をあらわし、小野猿麻呂がムカデを射たというのは、鉄を鋳たのではないかと推論しているようです。

[武藏国] 聖神社 *画像はWikiより
*「百足と金工」若尾五雄氏
佐渡相川に「百足山(むかでやま)」があり、かつてそこに小祠があった。現地には戸川藤五郎という者がいて「百足山」の百足を射たという伝承があると。そして彼はまた炭焼藤五郎とも呼ばれたようです。藤五郎井堰が旧金沢村の鍛冶沢のそばにあると伝えています。相川では昔は「金山祭」のとき、藁で拵えた大百足の飾りを持ち出したと言われているようです。
この説話から連想されるのが、近江国野洲郡の「御上山」(三上山)の大百足を退治した俵藤太の説話。上野国勢多郡の宮城村にも「百足山」があり俵藤太の話がまとわりついているとのこと。
「炭焼伝説」と「鍛冶・鉱山」、「ムカデ」が一連の関係を持つと谷川健一氏はみています。

◎「小野」と「猿」
柳田國男氏は前掲の「神を助けた話」の中で以下を記しているとのこと。
━━神様は猿麻呂に仰せられた。今より此山は汝に賜はる。山の麓に来て住むべし。我子の太郎神出でたまはんときは、汝まさに其申口と為るべし━━
これにより日光の神主は小野氏が代々継いできたとされます。
ここで注目されるのは「小野」と「猿」であると谷川健一氏はしています。これで思い出されるのが、「小野氏」と「猿女
(さるめ)」の関係。
下野国では「猿丸太夫」の苗字を「小野」と称しており、その子孫は今も宇都宮にあり「小野」と名乗っているとのこと。
「猿丸太夫」の「丸」は人間らしく聞えるように付けただけのもの、「太夫」は朝廷に仕えていたものの事。残るは「猿」のみ。つまり「小野」と「猿」が関係あるということになるとしています。
◎「小野氏」とは
小野氏の大元は近江国滋賀郡の「小野村」にあり、これが全国各地の神社に関係ある「小野族」の祖。この「小野家」が「猿女君氏」と結合しました。猿女君氏は天細女命と猿田彦の結婚によって生じた子孫だと自ら称しています。
*「縫殿寮(ぬいどののつかさ・ぬいどのりょう)」の「舞女」
「縫殿寮」とは律令制に於いての天皇等の衣服を裁縫し、女官の考課を司った役所のこと。多くの官僚を抱えていましたが、そのうちの一つ「猿女」という職員が在籍。定員は四人、「大嘗祭」などの裁縫物を作る呪術的性格を有した巫女。「鎮魂祭」に際して神楽を奉仕したとも「延喜式」の縫殿式等には記載。定員の四人は小野朝臣から貢進されていました。
「西宮記」には「猿女君氏」が貢進したと記します。この書の成立年代は不詳ながら、執筆者の源高明は延喜十四年(914年)~天元五年(983年)の人物。「延喜式」の成立は延長五年(927年)であるから、事実上この書の方が後に成立したとみなされます。
さて…概要はこの程度にして、谷川健一氏の本書に戻りましょう。
━━然るに従来縫殿寮の管轄に属する朝廷の舞女があつたが、その舞女は年々猿女君氏から出したものである。そしてその猿女君氏には近江の小野に養田が附けられてあつた。処が小野家と猿女君氏とが結合して以来、その舞女は年々小野家から出す様になつた。処がこれは小野家が小野の養田を猿女君氏から奪はん為にしたものである。如何にも不都合だから舞女を猿女君氏以外から出す事を止めてほしいと云ふ願書を、京都なる小野の一族から提出した。そしてその時の格と云ふものが今もなお残つてゐる━━
「養田」とは采女の生活費に充てるために置かれた田。「采女田」とも言います。
私自身の認識と谷川健一氏の記述に少々ズレが見られたので、該当箇所の全文を引用しておきました。真相を知る「願書」というものが存在するのでしょう。
小野朝臣というのは「新撰姓氏録」に、「左京 皇別 小野朝臣 大春日朝臣同祖 彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也 大徳小野臣妹子 家于近江国滋賀郡小野村 因以為氏」とある氏族。同祖とある「大春日朝臣」は「出自孝昭天皇皇子天帯彦国押人命也仲臣令家重千金 委糟為堵 于時大鷦鷯天皇 [謚仁徳] 臨幸其家 詔号糟垣臣 後改為春日臣 桓武天皇延暦廿年 賜大春日朝臣姓」と記載されます。
ここでは詳述を避けるも、大和国添上郡から山邊郡にかかる辺りを本貫地とした和迩(和珥・和邇)氏の裔。大春日朝臣・小野朝臣・柿本朝臣・大宅真人等の全16氏族に別れますが、その一氏族。大春日朝臣に次ぐ勢力を持っていたとみられます。
和迩(和珥・和邇)氏は第5代孝昭天皇の第一皇子であった天帯彦国押人命を始祖としていますが、これは仮冒とみてよいかと思われます。実態は諸説有り不明ながらも、太陽信仰を持つ朝鮮半島の鍛冶集団ではないか、或いは海人族ではないかといったところが有力な出自説。
小野朝臣氏の子孫では小野妹子・小野小町・小野篁・小野道風等がよく知られるところ。近江国滋賀郡「小野村」を本貫地としたようです。

[近江国滋賀郡] 式内名神大社 小野神社
(祭神/天帯彦国押人命・米餅搗大使主命)
*画像はWikiより
◎「近江」と「下野」の関係と「日光猿回し」
遠く離れた「近江」(滋賀県)と「下野」(栃木県)ですが、古来より種々関係が多いようです。俵藤太やその子孫は両国を行き来していたし、新しいところでは蒲生氏郷なども。
小野家もまた近江から日光へ拠点を移したのであろうと柳田國男氏の説話を引用し掲載しています。
「日光猿回し」の深淵を辿ると、ここに行き着くのではないかとみられています。即ち近江で「小野氏」と「猿女君氏」が結合→下野へ移住→「舞女」の儀式が「猿回し」と形を変え継承…このような流れであろうと。

*画像はフリー素材より
◎「小野氏」と「猿女君氏」が伝えたもの
「日光猿回し」が彼等が伝えたものと柳田國男氏は説きましたが、谷川健一氏はそれ以外にも伝えたものがあったと述べています。それは竜神を助けてムカデを退治したという猿丸太夫の冒頭の説話。
Wikiを見るとおよそ4500年前にメソポタミア文明が起こりとし、日本へは奈良時代に伝わった…初春の門付(予祝芸能)だ…などと、ついつい脱線しそうな大変に興味深い内容が記されています。
柳田國男氏監修の「民俗学辞典」には、以下が記されているとのこと。
━━小野一族は全国に移住して歩いた家すじで、もとは宗教家であったが、のちには遊芸の徒ともなったと記され、また日光二荒山では女体山の神を朝日という。朝日姫は神について、後に自らも神に祀られる者であり、巫女の中に朝日の名の多かったことが知られている━━
この「朝日」という地名が鉱山に多いことは谷川健一氏が指摘している通り。
今回はここまで。
「猿回し」が日本の伝統芸能であることは承知していたものの、その深淵は古代にまで遡るというのは本書により初めて知ったものでした。
次回も「小野氏」が続きます。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。