蟻通神社 (かつらぎ町東渋田)


紀伊国伊都郡
和歌山県伊都郡かつらぎ町大字東渋田790
(国道480号線沿いに駐車スペース有り)

■祭神
思兼命
[配祀] 事代主命 市杵嶋姫命 大国主命 少彦名命


「紀ノ川」の南岸畔、かつらぎ町「東渋田」に鎮座する社。南の紀伊山地からの丘陵斜面に社殿が設けられています。
◎創建由緒に関して和歌山県神社庁は以下の内容を上げています。
━━人皇九代開化天皇の御守初めて、当村字畑山(旧古宮山)に勧請し、旧志冨田の庄の総産土神として崇敬される。
崇神天皇の御守天下疫病多く起り、人民の為に盡ん(尽くさん)とする時、勅を以て天神地祗の祭場を設け、意冨多々泥古神をして神主となし、拝祭天下平人民栄なんとする。
故に古は、意冨多々泥古神を祭れるより意冨多村と称す、其後建武の頃より志冨多村と書き、初め明治の御代に至り、今の如く渋田と改称される━━
◎開化天皇の御代に勧請された神名は示されておらず不明。またこの時代にというのも疑問符が付くところ。崇神天皇の御代に意冨多々泥古神(大田田根子神)を神主としたとありますが、それが配祀神として祀られている大国主命でしょうか。そしていつの頃か意冨多々泥古神を祀っていたという時代もあったということのようです。
◎同続けて、
━━天武天皇の時代、唐の高宗から七曲りの玉を献じられ、これに糸を通して返せと難題をかけられたとき、1人の老人が現れ、蟻に糸を結びつけ、玉の穴の一端に蜂蜜を塗り、一端から蟻を通した。蟻は蜜の香りにひかれて穴を通り抜け、糸を通したのである。人々は感嘆してその名を問えば、吾は紀の国蟻通の神と言って姿を消した━━
◎この内容は紀伊国牟婁郡(現在の田辺市湊)や和泉国日根郡(泉佐野市長滝)の蟻通神社と類似したもの。また「蟻通」は紀貫之の和歌や清少納言の「枕草子」(→ 第225話の現代語訳の記事有り)、そして中世の世阿弥作とされる能楽で演じられる演目の一つであり、内容も類似したもの。これらが「蟻通」の名を世に広めたようです。
いずれも熊野街道沿いであり、平安時代には貴族らが大挙して熊野詣が行われていました。その様は「蟻の熊野詣で」とも言われるほど(正確には「蟻の熊野参り」で、文献に初めて現れるのは近世初頭)丹生川上神社 中社もかつては蟻通神社と称されていました。





境内社

境内社 蟻通戎神社





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