蟻通神社 (泉佐野市長滝)
(ありとおしじんじゃ)


和泉国日根郡
大阪府泉佐野市長滝814
(P有)

■旧社格
郷社

■祭神
大巳貴命
蟻通大明神
(*泉佐野市立図書館/郷土・行政資料による)


和泉山脈と大阪湾との間のわずかな平野部を有する泉佐野市。狭い原野を意味する「狭野」が地名になったとも。
◎当社は「樫井川」沿いに鎮座。鎮座地名「長滝」はある樵夫が「犬鳴山」の「二の池」に葛葉を投げ入れたところ、一昼夜にして清水に流れ出た(「葛葉井の淵」という、現地未訪)という伝承に基づくものとされます。
◎創建年代は不詳。社伝によると第8代孝元天皇の御代とも、第9代開化天皇の御代とも。ただし式外であるため、「神名帳」編纂(延長五年・927年)以降と思われます。
◎「蟻通神社」という社名は他にもいくつか見られますが、いずれも熊野へ向かう途次に鎮座します。紀伊国伊都郡の蟻通神社、牟婁郡(田辺市)の蟻通神社(未参拝)、大和国吉野郡の丹生川上神社 中社はかつて蟻通神社と称されていました。また東吉野村には「蟻通溪谷」と称される地もあります。そして当社。
中世には蟻の行列の如く熊野参詣が行われていたため、社名はそれに由来するとも。「蟻の熊野詣」と称されていました。少なくとも大和国吉野郡の丹生川上神社 中社は、これにちなむものと思われます。
◎当社の興隆のきっかけとなったのは、平安時代の二つの故事によるもの。一つは紀貫之の「貫之集」の記述、もう一つは「枕草子」の記述。
◎「貫之集」(10世紀中頃か)に以下のように記されます。
━━紀の国に下りて 帰り上りし道にて にはかに馬の死ぬべくわづらふところに 道行く人々立ちどまりていふ これはここにいますがる神のしたまふならん 年ごろ社もなくしるしも見えねど うたてある神なり さきざきかかるには祈りをなん申す といふに 御幣もなければ なにわざもせで 手洗ひて 神おはしげもなしや そもそも何の神とか聞こえん ととへば 蟻通しの神 といふを聞きて よみて奉りける 馬のここちやみにけり━━
紀の国に向かった貫之。能「蟻通」では紀伊国に補任したとなっていますが、「神道集」では和歌の聖地「玉津島」へ向かったとあります。そもそも紀氏の末裔、祖神は紀伊国名草郡にて祀られています。また後にも先にも、貫之ほど和歌を愛した者はいないのではないかというほどの「やまとうた」(和歌)の歌人。
馬上のまま蟻通神社を過ごしてしまい、蟻通大明神の怒りを買います。そこで和歌を奉納し、怒りを鎮めました。
━━かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは━━
「ありとほしをば」に「有と星」と「蟻(有)通」を掛けて歌ったもの。かつては境内に紀貫之像が立っていたとのこと。現在は「紀貫之歌碑」が立っています(下部写真にて)

◎「枕草子」には以下の記述があります。

━━社は布留の社 生田の社… (中略) …いとほしき 

蟻通明神 貫之が馬のわづらひけるに この明神の病ませ給ふとて 歌よみたてまつりけむ いとをかし━━

という紀貫之の説話が記され、続けて長文にて「蟻通明神」の名の由来について記されます。そこでは穴の通った七曲の玉に、蟻を使って糸を通したことによるとあります(詳細は →「枕草子」第225話 社は…にて)

正和五年(1316年)の「日根野村絵図」というものに、「穴通社」と名が見え、この故事にちなんだものと思われます。

この説話を社名由来としているのは、当社以外に紀伊国伊都郡の蟻通神社と、牟婁郡(田辺市)の蟻通神社。

◎中世には世阿弥が謡曲「蟻通」を作曲。これも当社に紀貫之が和歌を奉納した故事に基づくもの(詳細は案内板を写した最下部の写真にて)

戦国時代には兵火に遭い、社殿から宝物に至るまで全焼失。豊臣秀吉により再建され、鈴木春信の浮世絵「雨中夜詣(見立て蟻通し)」に描かれています。


「枕草子」第225話 社は…





参拝当日は工事車が占拠しており残念な状態に。端に停め置くなどの配慮に欠けていました。






こちらが「紀貫之歌碑」が立つ「冠之淵」。




知恵神社、六社神社、石祠群。




牛神祠


弁財天社

足神神社






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