「本系図」巻頭 *画像はWikiより






◆ 丹後の原像【86.古代海部氏の系図 ~7】





本題の系図へと進める前の最後の記事。
但馬国の古墳時代の様子を見ていきます。

丹後国とは関係無い?

いやいやいや~
大いに関係があるのです。

海部氏の当主、天火明命六世の建田勢命(海部直命)は北但馬を拠点にしていたのです。

但馬国を知らずして丹後国は語られない!


また内陸の出石地方は天日槍神が拠点としていた地。両者の関係を探る必要があります。

まだあまり訪れることができていない地域ですが、知識を深めて、いずれ訪れる際の糧にしたいと考えています。



最後に残ったのが但馬国の古墳等。今回を以て、一連の丹後(但馬)を含む古代の粗方の様子を紹介する記事を終え、いよいよ本題の系図の記事へと進みます。

既に記したように、但馬国が丹波国から分離独立したのは天武天皇十三年(684年)のこと。また丹後国が独立したのは和銅六年(713年)のこと。



◎「円山川」下流域

「北但馬」と称される地域。古墳は全部で5000基以上あると言われます。中でも特に河口部に絞った地域を。城崎郡に該当。
「円山川」沿い河口部の古墳は、水運を掌握していた有力者のものと考えられ、また海部氏の墳墓もこの地に存在します。

*ケゴヤ古墳
城崎温泉の南方、「城崎街道 海の駅」のすぐ近く、「円山川」沿いの古墳。
形状は不明、石室のみが残るようです。6世紀後半頃、多量の金箔や二枚貝の入った須恵器(死者へ捧げた食事か)等が出土。

*二見谷古墳群
玄武洞の対岸、ケゴヤ古墳から南方400mほどの地の6基からなる古墳群(8号墳もあるので正確には8基か)。組合式家形石棺、刳抜式石棺があるとのこと。金銅製鍔、金環、圭頭太刀等が出土。いずれも6世紀後半頃。

*風谷古墳(かんだにこふん)
「円山川」河口東岸、集落外れの山腹に築かれた古墳。玄室天井は巨大な一枚岩。6世紀末頃、当地を支配した豪族の墓か。

*小見塚古墳
城崎小学校の裏山の古墳。現在は消滅。但馬地方でもっとも古い円筒埴輪を持ち、三角縁神獣鏡2面と中国鏡1面が出土。4世紀後半頃か。

「円山川」河口の古墳時代以降の様子を探る上で欠かせない、核となるお社。海部直命(天火明命六世孫 建田勢命と同神とされる)が関わっており、丹後国の当主がこの時代にここにいたということになります。本編にて詳しく触れることとなります。


海神社(豊岡市小島)




◎「円山川」中流域(1)

支流「出石川」流域の出石郡を、便宜的に「円山川」中流域(1)とします。天日槍神とその後裔たちが拠点としていました。

*森尾古墳
魏の正始元年(240年)銘の三角縁神獣鏡が出土。「魏志倭人伝」によると、この年に皇帝より卑弥呼に銅鏡100枚を下賜したとあります。まさしくその鏡ではないかというもの。
同銘の鏡は群馬県高崎市の蟹沢古墳、山口県周南市の老屋敷古墳でも出土しています。

古墳そのものは消滅。埋葬施設は三基あり、各々に一面ずつ鏡が埋葬。うちもう一面は方格規矩鏡。築造時期は3世紀後半~4世紀前半頃に推定。

*茶臼山古墳(出石茶臼山古墳)
径49mの巨大円墳(周濠有り)。長持型石棺、円筒・家形埴輪、どうき等が出土。5世紀頃築造。当地を支配した首長級の墳墓とされる。

当地方の核となるお社はもちろん当社。但馬国一ノ宮。当地を開拓したという天日槍神と、開拓する際に携えていた「八種の神宝」を「伊豆志八前大神」として祀ります。


「播磨国風土記」には、泥海であった但馬を「円山川」河口の岩石を切り開いて泥水を日本海へ流し、但馬平野(出石のことか)にしたとあります。「円山川」河口は海部氏が支配していた地。検討せねばならない件かと思います。






◎「円山川」中流域(2)


「円山川」本流の気多郡に該当する地域、現在の日高町辺りを便宜的に「円山川」中流域(2)とします。但馬国府はこちらにありました。

海部氏と葦原志挙乎系の両勢力が見られます。また彦狭知命を祀る楯縫神社もあり、忌部氏も進出しています。未だ未踏の地、訪れては調べて…をしないといけないですね。


*気多神社

但馬国総社。郡名ともなっており、気多郡の核となる社かと思います。

「播磨国風土記」には、天日槍神と葦原志挙乎(大国主命と同神とする)が「黒土の志爾嵩」に至り、「黒葛」(矢)を三条(三本)ずつ射て落ちた所を支配地にすることにしました。天日槍神が投げた「黒葛」はすべて出石に。葦原志挙乎が投げた一つは「気多」に、一つは「夜夫(養父)(養父神社)に、一つは「御方」(播磨国宍粟郡の御方神社)に落ち、各々を支配したと記されます。


*多摩良木神社

海部氏の祖神であるという彦火火出見命を祀ります。




◎「円山川」上流


養父郡・朝来郡といった地をここでは取り上げます。こちらは海部氏系が支配したようです。

*大藪古墳群
全150基ほどからなる古墳群。うち禁裡塚古墳・塚山古墳・西ノ岡古墳・こうもり塚古墳の4基は、大型横穴式石室を有します。6世紀後半~7世紀前半頃。特に4基は4代に渡る、この時期の但馬地方最大の盟主墳とされています。

*養父神社
但馬国三ノ宮。倉稲魂命・大国主命・少彦名命とともに谿羽道主命や船穂足尼命(フナホスクネノミコト、彦坐王五世孫、但馬国造の祖)を祀る社。その谿羽道主命が崇神天皇三十年に創祀したと伝わります。
ご祭神や創祀譚から、海部氏が関わる社であったことが分かります。また先の気多神社の項で記したように、葦原志挙乎を奉戴した氏族が先住していたようです。さらに大藪古墳群との関連も想定されます。こちらの氏族は朝来郡の項にて。

養父神社 *画像はWikiより



*茶すり山古墳
径90mと近畿地方最大級の巨大円墳。朝来市の粟鹿神社より西方4~5kmほどに位置します。円筒埴輪、朝顔形埴輪が列状に並べられていたとのこと。大量の鉄製品が副葬。5世紀前半の築造。ヤマト王権と強く結び付いた、当地の首長墓とされます。

*城ノ山古墳
茶すり山古墳から3kmほど北西。径30~36mの円墳。銅鏡3面が出土するが、うち1面は「三角縁神獣文帯三神三獣鏡」。頭骨が残存する他、勾玉や管玉が80個以上検出。4世紀末頃の築造とされます。

*池田古墳
城ノ山古墳から北西わずか100m余りに築かれた古墳。全長141mの大型前方後円墳(周濠有り)。埴輪列があったとされ、うち水鳥形埴輪23体は全国最多。5世紀前半頃とされます。

*船之宮古墳
全長80mの前方後円墳(周濠有り)。円筒埴輪・壺形埴輪・最古の牛形埴輪が出土。5世紀頃築造。上記の船穂足尼(彦坐王五世孫、但馬国造の祖)の墓と伝わるも、真偽は不明。

*粟鹿神社
但馬国一ノ宮とも二ノ宮とも。ご祭神は天美佐利命・日子坐王命・日子穂穂出見尊。配祀神は八柱ですが、うち一柱は籠神。ただし「神名帳」においては一座。

天美佐利命は大国主命の御子。神部氏(ミワベノウジ)の祖。当社古文書によると、洪水や豪雨など荒ぶる天美佐利命を鎮めるために、大田田根子の孫である大彦速命を派遣。天美佐利命を祀ることで鎮めたとあります。

一方で社伝に於いては、崇神天皇の御宇に四道将軍として派遣された日子坐王命(彦坐王)が丹波(当時は丹後・但馬国を含む)を平定、後に当地で薨去、ご本殿裏の円墳(らしき高まり)に葬られたとしています(治定墓は美濃国の日子坐命御墓)

また日子穂穂出見尊は海部氏の祖とする説もあります。


異なる氏族が絡んでおり、紐解くのはなかなか困難なものとなっています。



粟鹿神社 ご本殿と背後の円墳状高まり。

*画像はWikiより






今回はここまで。


但馬国を含む古代丹後の様子は、これにて終了します。


これらを含めて次回からはいよいよ本題の海部氏系図へと。


どうやら粟鹿神社の謎を、ある程度は紐解いておかないといけないことが浮き彫りとなりました。


前回参拝はおよそ20年ほど前のこと。

その辺りの時代に進むまでには訪れておかねばなりませんね。




*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。