今回よりいよいよ
「祈年祭」へと進みます。
ここに来るまでが長かった~
ここからが本当に難解な読解を必要としますので、心して取り掛かりたいと思います。
過去記事一覧を作成しました。
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いよいよ「祈年祭」祝詞に進むのですが…差し当たって「祈年祭」とは?というウンチク話から始まります。
◎「祈年祭(としごひのまつり)」
先ず「祈年祭」の概要が示されています。
━━毎年二月四日に、神祈官及び國司の廰(ちょう、=公の仕事を 行う場所)に於て、穀物の豊熟を神祈に神請する祭であつて、月次・神嘗・新嘗(つきなみ・かむなめ・にいなめ)の祭と共に、中祀に擧げられ(延喜式参看)、又六月十二月兩度の月次祭・新嘗祭と併せて、四箇祭とも稱されてゐた(類聚三代格参照)━━
◎「年」の字義は「穀」または「實る」
中国の類語辞典・語釈辞典である「爾雅疏」という書には、「年者禾熟之名 每歳一熟 故以爲(二)歳之名(一)」とあります。「禾」は「稲」のこと。つまり「年」とは、「稲が熟することを言い、毎歳一度熟する。だから歳となったのである」(拙解)と。「年」は「稲の実り」のこと、「歳」とは「一年のこと」。
また中国最古の漢字字典である「説文解字」には、「季 穀熟也 从(レ)禾干肇 春秋傳曰 大有(レ)年」とあります。「季」は年の本字。
次田潤氏はこれを踏まえ、「年」の本義は「みのる」であり、「歳」の義は第二義として生じたのであろうとしています。
◎日本古代の「年」の用例
「年栄ゆ」「年有り」「年得」など、日本においても「年」を「穀物」、特に「稲」の義に用い、また穀物の「実る」意に用いた例がみられるとしています。
*「萬葉」 巻十ハ 大伴家持
━━わが欲りし(ほりし) 雨は降り來ぬ かくしあらば 言擧(ことあげ)せずとも 年は栄えむ━━
*「榮華物語」 日蔭蔓
━━年つくり 楽しかるべき 御代なれば 稻ぶさ山の ゆたかなりけり━━
*「新勅撰冬」 内大臣
━━あらはれて 年ある御代の しるしにや 野にも山にも つもる白雪━━
◎「祈年」は「豊年を祈る」義
「祈年祭」祝詞に穀物の神を「御歳皇神(ミトシノスメガミ)」とあり、稻を「奧津御歳(おきつみとし)」とあるのは、「年」に「實る(実る)」という意義があることに拠るとしています。
支那(中国)の古典には「祈年」が散見されるようです。
*「毛詞」
━━祈(レ)年孔夙方社不(レ)莫━━
「夙方」の訓みは「はやく」、「不(レ)莫」の訓みは「おそからず」。
*「禮記」
━━天子乃祈(二)來年於天宗(一)━━
*「周禮注疏」
また年穀の豊穣を祈る祭を営む為に、「祈年宮」を設けたことが「漢書地理志」に記されています。
◎「農祭」
以上から「祈年祭」は「農祭」ということが判然としています。その「農祭」については、二月の「祈年祭」に始まり、四月七月両度の「廣瀬大忌祭」「龍田風神祭」、六月十二月両度の「月次祭」、九月の「神嘗祭」、十一月の「相嘗祭」「新嘗祭」の両祭があります。
これら四季に行われる種々の「農祭」は、中国の周に於いても行われていたようです。これは周の始祖である人物がかつて農師であり、幼少時から好んで農耕を好んでおり、周という国が農業によって興った国であるから。
本書では詳述されていますが、こちらでは割愛します。なお周は紀元前1046年頃~紀元前256年にあった国。
この周の「農祭」と、我が国の同じ目的の祭祀には相似点があることから、支那(中国)文化の伝来によって我が国の祭祀の発展を促したとみています。
◎「祈年祭」の起源
次田潤氏は「祈年祭」の起源は詳びらかではないとしています。「古語拾遺」に大地主神が御歳神を祀って年穀の豊稔を得たという伝説が記されるも、これを以て直ちに、後の「祈年祭」の濫觴であると断言することはできないと。この伝説中にも支那(中国)の影響が見えているから(後々触れることとなります)、尚更であると。
*天武天皇四年(675年)説
「二十二社註式」「年中行事秘抄」「年中行事抄」「公事根源」等に、天武天皇四年(675年)二月甲申(四日)に初めてこの祭が行われたとあります。
次田潤氏は紀にこの事が記されていないことから、これを否定しています。また多くの研究者もこれら古典が後世に編まれたものであることから、肯定できないとしています。
*崇神天皇御代説
「祝詞考」(賀茂真淵)は崇神天皇の御代始まったとしています。
ところが次田潤氏はこれも否定。初春の頃に稻種を水に浸すに当たって、その豊穣を神に祈願する事は、たとえ我が国固有の風習であったとしても、これを「祈年祭」と名づけて朝廷に於て重要な祭祀とは認められないと。
*文武天皇 慶雲三年(706年)説
続紀に「潤正月庚子(二月三日)この日に甲斐信濃越中但馬土佐等の国の19社に初めて祈年の幣帛を行った」(大意)とあります。
「大宝令」及びこの記述により、「大宝令」以前(701年以前)であることは明らか。そしてこの時よりさほど古くはないであろうと想像されるとしています。
実際に「甲斐信濃越中但馬土佐等」という、大和朝廷からは遠く離れた地に幣帛が行われたということは、既に相当広範囲に社格の低い神社にまで幣帛が及んでいたと考えます。
今回はここまで。
未だ「祈年祭」の訳文には進められていないですが…
もう一回分だけ、「祈年祭」のウンチク話の続きがあります。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。