(熊野三所大神社の境内社 丹敷戸畔社)



■表記
丹敷戸畔(ニシキトベ)


■概要
神武東征神話に登場。紀伊国南部を広く治めていた酋長と思われます。
◎紀の記述は以下の通り。
━━天皇獨與皇子手硏耳命 帥軍而進 至熊野荒坂津亦名丹敷浦 因誅丹敷戸畔者━━神武天皇は皇子である手研耳命(タギシミミノミコト)独りを連れて進軍、「熊野荒坂津」またの名「丹敷浦」に至り、丹敷戸畔を誅した━━と。この記述のみが存在します。
◎名草邑にて名草戸畔を誅した神武軍は(真相は敗れて追い出されたとされる)、「狹野」(新宮市佐野に推定)を越え「熊野神邑」(新宮市三輪崎に推定)に至ります。そして「天磐楯」(神倉山のゴトビキ岩に比定)に登り進軍。熊野灘が荒れているので、次男と三男である稲飯命と三毛入野が入水し荒れる海神を鎮めます(→【書記抄録】稲飯命と三毛入野命の入水)。この後に記されます。
◎「熊野荒坂津(丹敷浦)」については熊野市「二木島」(→熊野荒坂津伝承地)、熊野市「大泊」、大紀町「錦」が候補地として挙げられています。なお「天磐楯」は二木島の「楯ヶ崎」も。
したがって丹敷戸畔が誅された「熊野荒坂津(丹敷浦)」については、広範囲に渡っています。
◎丹敷戸畔を誅した後、━━時神吐毒氣 人物咸瘁 由是 皇軍不能復振━━とあり、神武軍は神の「毒気」にやられてしまいます。そして高天原より「韴霊剣」が降ろされ復活します。
この記述が丹敷戸畔を誅したすぐ後に記されます。このことから丹敷戸畔が奉斎していた神が、神武軍に対して「毒気」を吐いたと考えることが可能ではないかと。この神についての詳細は記されませんが、いわゆる「熊野大神」、家津御子大神、夫須美神、速玉神などの神名が宛てられる前の神だったのではないかと考えます。またこの神が吐いた「毒気」は「鉱毒」ではないかと考えます。
◎伝承地は和歌山県東牟婁郡串本町から三重県度会郡大紀町錦まで広範囲に広がっています。紀伊国から志摩国南部にかけて、一帯を支配していたという考えもあります。


■関連社、関連史跡(参拝済みのみ)
[紀伊国牟婁郡] 熊野三所大神社の境内社 丹敷戸畔社
[紀伊国牟婁郡] 御手洗海岸(王子ヶ浜)
[紀伊国牟婁郡] 「おな神の森」

[紀伊国牟婁郡] 熊野荒坂津神社


(熊野三所大神社の境内社 丹敷戸畔社)