☆ 熊野荒坂津伝承地 (熊野市甫母町)



紀伊国牟婁郡
三重県熊野市甫母町
(詳細住所不明、国道311号線沿い「楯ヶ崎」の駐車場内)



「二木島湾」の急峻な崖上、海岸沿いの国道沿いの駐車場内に建つ石碑。

神武東征の砌、海路から一転し陸路へ向かったとされる「熊野荒坂津」の伝承地。「熊野荒坂津」の比定地を巡り、主に4つの説があります。
◎熊野市「大泊」説
◎新宮市「三輪崎」説
◎大紀町「錦」説
◎「二木島」説

もっとも有力なのが「大泊」説、次いで「三輪崎」説、その次に「錦」説、最後に「二木島」説でしょうか。


東征神話を紀の記述より。

◎紀伊半島をぐるりと回り、まず上陸したのが「熊野神邑(みわのむら)」。新宮市の阿須賀神社境内に「熊野神邑顕彰碑」が立てられています。

◎「天磐盾」に登る。比定地は「ゴトビキ岩」(神倉神社)。熊野大神を畏怖したのか、一旦引いてから進軍。

◎海中で暴風雨に遭い「漂蕩」。稲飯命と三毛入野命の二人の兄が相次いで、海神を鎮めるために入水。場所の詳細は記されないものの、比定地は「二木島(にぎしま)」の室古神社阿古師神社の社前の海。

◎「熊野荒坂津」、別名「丹敷浦(にしきのうら)」に到着。丹敷戸畔を誅す。
この時に神の吐いた毒で皆倒れる。天照大神が武甕槌命を通じて韴靈(ふつのみたま、剣)を高倉下に降ろし、狭野命(神武天皇)に献上し復活する。

◎天照大神が遣わした八咫烏先導のもと、熊野の険しい山中を越え、大和の宇陀へ至る。

以上、ごく簡単に要約しました(詳細は【書紀抄録】稲飯命と三毛入野命の入水の記事参照)

海神が荒ぶったり、毒を吐いたりしたのは幽界の地「黄泉国」に踏み込んだからとも言われますが、「天磐盾」で一旦引き返しているのはこれを示唆しているようにも取れます。
個人的には、海から山からすべてを支配する熊野大神の所業という捉えたからではないかと思っていますが。

「熊野荒坂津」を「大泊」や「三輪崎」に比定するなら、皇軍は行ったり来たりとなります。

新宮市の「熊野神邑」「天磐盾」はすぐ近く。
このあと二人の兄が入水したのが「二木島」付近であるのが間違いないとすれば、50kmほど北へ進軍。

「大泊」は南方10km近く、「三輪崎」は新宮市のまだ南方。

当地を比定するなら行ったり来たりせずに、そのまま湾の奥に入っただけ。しかも「丹敷浦(にしきのうら)」と「二木島(にぎしま)」は音が似ている。

その音の相似でいうのなら「錦」説も。
こちらは「二木島」からさらに北方50kmほど。

問題は「丹敷戸畔を誅す」。丹敷戸畔の墓所や戦ったとされる伝承が、「三輪崎」からさらに南方の「那智勝浦」にかけて多くあること(熊野三所大神社「おな神の森」など)

一方でその後の東征ルートを考えると「大泊」が現実的。また伝承が多くあるのです。

大紀町「錦」までをも支配していたのかは少々疑問。


以上見てきたように、現状比定するのはかなり困難かと。

とにかく今後も伝承地を一つでも多く訪ね、自分なりの答えを出していきたいと考えています。


残念ながらこの場所からは、草木に邪魔をされて「二木島湾」はほとんど見えません。定期的に刈り取っておられるのでしょうか。



阿古師神社の社前から見た「二木島湾」。

「楯ヶ崎」から見た室古神社方面。

室古神社から見た「楯ヶ崎」方面。