■表記
紀 … 池速別命
記 … 伊許婆夜和気命
その他 … 息速別命(「新撰姓氏録」など)


■概要
第11代垂仁天皇皇子。
◎母は丹波道主命の娘、薊瓊入媛(アザミニイリヒメ)。垂仁天皇は狭穂姫命を皇后とするも自害(参照記事 → 狹穗姫・狹穗彦 禁断ロマンスと「黒髪山」)。続いて丹後より丹波道主命の娘、日葉酢媛命を後宮として迎えています。合わせて2人の妹も妃に。3姉妹が垂仁天皇の后妃となっています。
◎記紀ともに事績等の記載は無し。唯一とも言えるのが、「新撰姓氏録」の阿保朝臣(後裔氏族)の記述。
━━息速別命幼少の時、垂仁天皇は皇子と為す。伊賀国阿保村に宮室を築く。以て封邑と為す。允恭天皇の御代、子孫居地名に因りて阿保君の姓を賜わる。天平宝字八年(756年)、朝臣姓を賜り改める━━(大意)
これによると伊賀国「阿保(あお)村」の領主となり「宮室」が築かれたことが分かります。
◎「三国地誌」(宝暦十三年、1763年)には、宮室の推定地として「阿保南部の字福森から字宮ノ森にかけての緩やかな丘陵地帯」と記しています。「字福森」はおそらく大村神社の南方すぐ、「字宮ノ森」は不明ながらも「宮」を大村神社のこととするなら、その周辺かと思われます。大村神社の主祭神である「大村神」とは、息速別命であると伝わります。
◎一方で続記には、阿保君姓は四世孫である須禰都斗王が賜ったと記されます。これは「新撰姓氏録」の天平宝字八年(756年)に対応するものかと。
◎谷川健一氏は「青銅の神の足跡」において、鍛治との関連を指摘しています。垂仁天皇を始め、御子たちには鍛治にまつわる伝承が多いことによるもの。
垂仁天皇は活目入彦五十狭茅尊とも言われますが、これは隻眼であったため、目を「活」すなわち蘇らそうとしていたことからの名ではないかと推測。天目一箇神(アマノメヒトツノカミ)を始め鍛治神には隻眼が多く、これは職人たちが作業時に目を損傷しやすいことからとみています。
誉津別命は「唖児」(水銀中毒)であったのではないかと(参照記事 → もの言わぬホムチワケ皇子のためなら…)。五十瓊敷命は剣一千口を造り、それを収めた石上神宮の神宝管理者となっています。鐸石別命(ヌテシワケノミコト)の「鐸」は銅鐸のことであるとしています。
また息速別命も東国に下向するも罹病し、一眼を損じたという伝承があるようです。


■系譜
◎垂仁天皇第9皇子とする文献も。
◎妻子は不明、記紀等に記述は無し。
◎子に宇礼葉別命を挙げる系図と、伊賀国造祖の武伊賀都別命を挙げる系図があるとのこと(Wikiより)。


■後裔氏族
◎記には、沙本穴太部之別(サホノアナホベノワケ)が記されます。大和国添上郡沙本(さほ)を拠点とするも、全国各地に見られるようです。
◎「新撰姓氏録」には、上述のように阿保氏(阿保君)を挙げています。伊賀国伊賀郡阿保が本拠地。谷川健一氏は、「阿保」は「青」に通じ、青銅の鍛治から鉄の鍛治へと技術を受け継いだと考えています。この地からは銅鐸も出土。
◎そもそも伊賀国全体が阿保氏の治めるところであったという見方も。この一族は伊賀国造一族ではないかとも考えられています。


■墓所
伊賀国伊賀郡阿保の息速別命墓(西法花寺古墳)が治定墓。
ところが出土品からの推定築造年代が息速別命とは合わないため、事実上は治定違いとされます。大村神社の神域内に古墳が見られ、こちらが真の息速別命墓ではないかとも。


■祀られる神社等(参拝済み社のみ)
[伊賀国] 大村神社
[伊賀国] 息速別命墓



(垂仁天皇皇子 息速別命墓)