(狭岡神社境内の「狭穂姫の鏡池」)



◆ 狹穗姫・狹穗彦 禁断ロマンスと「黒髪山」



記紀には狹穗姫と狹穗彦の物語が記されます。

記には「髪」のことが少し記されますが、紀には記されません。ところが当地には民話として「黒髪山」のことが伝わっています。

禁断のロマンスストーリー。

物語性が高くフィクションであろうとされますが、伝わっている民話の内容と、残される地名と神社…実話を元に脚色されたのではないか?…と考えています。


古事記の方に関しては現在翻訳中であり、いずれこの場面を紹介することになります(大変遅れておりますが…)。

ここでは当地に伝わる民話を紹介したいと思います。禁断の…民話ではありませんが。

引用は奈良町界隈の「生き字引」、奈良の老舗中の老舗、砂糖傳増尾商店の増尾正子おばあちゃんの「奈良の昔話」より。

確か…百歳近い?
まだお元気でいらっしゃるのでしょうか…。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


(第九代)開化天皇の孫に狹穂彦と狹穂姫という兄妹がおられ、妹の狹穂姫は第十一代垂仁天皇の皇后になっておられた。天皇位を狙っていた狹穂彦は、妹の狹穂姫に、謀判に荷担して天皇を殺すようそそのかすが、天皇を愛していた狹穂姫は天皇を殺すことが出来ず、企てが露見する。天皇は狹穂彦征伐の軍をおこし、狹穂姫は兄の軍に走る。その時姫はみごもっていた。妃を愛する天皇が、攻めあぐんでいるうちに、姫は「稲ゆぎ(稲を積んで造った応急の城)」のなかで皇子を産まれた。姫はその皇子に「誉津別命(ほむつわけのみこと)」と命名して天皇方にお渡しし、自らは追手から逃れるため、黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃去したという。皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、稲城の古事から、五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられる。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


この民話は「黒髪山」の地名由来と、「黒髪山稲荷神社」(後ほど記事UPします)の創建由緒を主体として描かれています。

一方記紀においては、「禁断の兄妹ロマンス」が主体(※二人は同母兄妹です)。

記の記述をかいつまんで紹介しておきます。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


兄の沙本毘古王(狹穗彦)は妹の沙本毘売(狹穗姫)
に、「夫(垂仁天皇)と私とどちらを愛しているか」と尋ねます。

姫は「兄を愛しています」と。

すると彦は「愛する二人で天下を取ろう!」と言って小刀を姫に渡し、「天皇が寝ているところを刺し殺せ」と伝えます。

天皇が姫の膝枕で寝ていると、姫は小刀を三度も振り上げ刺そうとしますが躊躇われ、涙がこぼれ落ち天皇の顔を濡らします。

天皇は目覚め姫は事の真相を告白します。
彦討伐軍が差し向けられ、「稲城」においての攻防が続きました。

彦は間もなく討たれますが、姫はみごもっていました。天皇は姫をまだ愛していたため軍隊に「髪を掴んででも、服を引っ張ってでも、何とか引き連れて来るように」と命じます。

姫は先にそれを悟り手を打ちます。
髪を切って剃り上げたところにその切った髪で作ったカツラを被り、酒などで腐らせた衣をまといました。

軍隊は髪を掴んでも衣を引っ張っても、姫を連れ帰ることは叶いません。

間もなく子供は産まれ(ホムチワケ皇子)天皇の元へ引き渡されました。姫は稲城に火をつけて亡くなりました。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


紀では出産のことも、髪などのことも記されていません。

こういった場合、記の方でこの部分だけ話が創作されたと考えるのがセオリーなのかもしれませんが、当地民話には「黒髪山」という伝承があります。

元になる史実があったように思いますが…。

(狭穂姫を祀る常陸神社境内社)

(黒髪山稲荷神社)

(「黒髪山那富山墓」への道)