(式内名神大社 飛鳥戸神社)



■表記
飛鳥戸氏(アスカベノウジ)
*「新撰姓氏録」には飛鳥戸造(アスカベノツク
リ)
*飛鳥部・安宿・安宿戸という表記も


■概要
雄略天皇五年(461年)に渡来したとされる、昆支王(コンキオウ)を祖とする氏族。昆支王は百済第21代蓋鹵王(ガイロオウ)の子(弟説有り)。

◎「新撰姓氏録」には、「右京 諸藩 百済 飛鳥戸造 出自百済国比有王男琨昆伎王也」、「右京 諸藩 百済 飛鳥戸造 未多王之後也」とある氏族。比有王とは蓋鹵王の父で第20代百済王。つまり昆支王の祖父(父とも)。未多王とは

◎高句麗からの圧迫を受け倭国との関係を強化したい蓋鹵王は、昆支王を倭国に送ります。昆支王は15年~17年以上は倭国に留まったとされ、その子孫たちが住み着いたのが安宿郡(あすかべのこほり)。飛鳥戸評(あすかべのこほり)と表記された時代も。

◎氏神はその安宿郡に鎮座する式内名神大社 飛鳥戸神社(現在記事改定作業中、リンクには飛びません)。現在は素戔嗚尊を祀りますが本来のご祭神は昆支王

◎一族の墳墓が周辺に多く見られます。130基ほどが残る「飛鳥千塚古墳群」(未拝)、こちらは飛鳥戸神社の北側。5km程度北方の大県郡には高井田横穴群が一族のものと見られています。
ところがいずれも6世紀後半以降からのもの(一部の古墳を除く)。昆支王が渡って来た5世紀後半からの古墳は見当たらず、当初はどこを拠点としていたのか未だ謎の状態。なお同じ安宿部内に、後裔の百済宿禰永継を祀っているとされる式内名神大社 杜本神社(羽曳野市駒ケ谷)もあります。


◎安宿郡には他に同じ百済系渡来人、田辺史という氏族も住み着いていました。氏神は春日神社とされます。伯太彦神社伯太姫神社(いずれも式内社)も一族が奉斎した社(紀には「田辺史伯尊」と記される)。さらに安宿郡内には鋤田連氏(拠点は賀美郷か)や上村主氏もいたようですが詳細は分かっていません。飛鳥戸氏はこれら氏族を率いたいたのではないかと考えています。

◎およそ6世紀頃から「大和川」を挟み南の安宿部・石川郡・錦織郡など、北の大県郡や高安郡・古市郡など一帯に渡来系氏族が拠点としていました。これは欽明朝に設置された「屯倉」と大いに関係があるとする説も。
「大和川」は大和と河内ひいては摂津とも繋がる、当時の最大とも言える要衝地。また陸路として南方の「竹内街道」も最初の官道として、同じく大和と河内・摂津を繋ぐ最大の要衝。この水路陸路の周辺に「屯倉」を設置し、渡来系帰化人を集中して住まわせたと考えられます。


◎安宿郡には「賀美・尾張(元は奈加)・資母」郷がありました。「上・中・下」のこととされています。
尾張郷は渡来系の尾張部氏が拠点とした地(片山神社の記事参照)ですが、氏族名から尾張氏、つまり葛城氏が関わっていたものと考えられます。葛城氏は襲津彦を中心とし当時隆盛を誇っていた氏族。対朝鮮半島との外交の重鎮であり、何度も行き来していました。その際に渡来系氏族が大いに活躍したであろうことは用意に察せられます。
また没落後に台頭した蘇我氏も渡来系帰化人を束ねた氏族。石川郡を本貫地としていました。この時代は特に飛鳥戸氏などを中心に渡来系氏族を抜きには語れない時代かと思います。

◎飛鳥戸氏の末裔である高野新笠が、第49代光仁天皇と結ばれ桓武天皇が生まれています。また飛鳥部奈止麻呂(安宿奈止麿)の娘である永継が、藤原北家の内麻呂の后となり冬嗣などが生まれています。さらに桓武天皇に寵愛され女儒に。「百済姓」を賜っています。その百済永継が祀られているのが式内名神大社 杜本神社(羽曳野市駒ケ谷)

◎飛鳥戸氏そのものは語られることは決して多くはないものの、古墳時代から平安初期においては歴史を彩った氏族であると思います。


■関連する神社・史跡等(参拝、見学済みのみ)

高井田山古墳 … 始祖 昆支王の墓とされる