伯太彦神社


河内国安宿郡
大阪府柏原市玉手町7-21
(隣接する安福寺の駐車場を借りました)

■延喜式神名帳
伯太彦神社 鍬 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
伯太彦命
広国押武金日命


柏原市玉手町の窮屈な住宅密集地内、「玉手山丘陵」の中央部に鎮座する社。南方300~400mほどの伯太姫神社と対になる社とされています。
◎創建由緒等については以下のように社頭案内に掲げられています。
━━故事伝承によるとご祭神である伯太彦命は、伯尊百尊(ハクソンハクソン)であると。田邊氏の祖であり、豊城入彦命(崇神天皇の御子)の四世孫 大荒田別命の裔である奴賀君の子とされる。また百尊の孫の斯羅(シラ)が皇極天皇の御代(642~645年、斉明天皇の時代を除く)に田邊氏一族として、安宿郡の資母郷(詳細地不明)に居を構えていたとの伝承がある━━と。
◎田邊氏については「新撰姓氏録」に、「右京諸藩(漢) 田邊史 漢王之後 知惣ヨリ出ル也」とある氏族。この知惣(チソウ)なる人物については、和徳(ワトコ)の誤りではないかと続記にもあり、既にこの時代において分からなくなっています。また漢王の流れを知惣ではなく、百済王の血を引く智宗(チソウ)の間違いであろうという説も。時代背景から鑑みて後者が妥当なところでしょうか。いずれにしても渡来系帰化人とみて間違いなさそうです(下記にて)。
◎さらに「新撰姓氏録」には別の記述も。「右京皇別 田邊史 豊城入彦命四世孫 大荒田別命之後也」と。渡来系帰化人でありながらあろうことか「右京 皇別」に列しています。続紀にも田邊史難波らが上毛野君の姓を賜っているとあります。
◎ここで気になるのが「史(ふひと)」。田邊史大隅の庇護を受けて一気に頭角を現したのは藤原不比等。田邊史たちから多くのことを学んだのではないでしょうか。それが大きく開花したのは記紀編纂においてなのではと。その報恩あってか「右京 皇別」に列し、上毛野君姓を賜り、また当社も式内社に列格したのではないかと考えています。東方700~800mの柏原市「田辺」には春日神社が鎮座。境内に氏寺の田辺寺がかつてあり、その鎮守社であったとされます。
◎「新撰姓氏録」に見える大荒田別命ですが、紀の神功皇后四十九年の条に、荒田別命らが将軍に任命され新羅を討ったという記述があります。そして百済王と会見したと。さらに応神天皇十五年の条には百済に派遣され、王仁(ワニ)を連れ帰ったと。王仁といえば論語・千字文を伝えたとされる人物(参考記事 → 「伝 王仁墓」)、真偽のほどはともかく漢から百済に渡ったと推される学者。田邊史たちはこの時に一緒に渡来、或いはこれを縁に後に渡来した人たちではないかと考えます。
◎もう一箇所「新撰姓氏録」には、「和泉国 未定 雑姓 伯太首 神人 天表日命之後也」とあります。これは和泉国の伯太神社を奉斎した氏族と推定されます。
天表日命は天表春命(アメノウワハルノミコト)のことと思われます。天岩戸神話でも有名な神であり高天原の知恵者として知られる、ハ意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)の御子神。当社との関連が考えられるものの、出自も異なるため真相は不明。

◎江戸時代には躑躅尾社(「つつじおのやしろ」か)や牛頭天王社などと称されていたとのこと。明治の合祀令により誉田八幡宮に合祀されます。ところが自然災害が相次いだため、直ぐに神殿を建てて奉祀を再開。昭和の初めに復社したようです。
◎当社が鎮座する「玉手山丘陵」には4世紀のものを筆頭に6~7世紀頃の群集墳や安福寺横穴群があります。おそらく田邊氏一族のものであろうとされています(土師氏説も有り)。中には騎馬人物像等の線刻壁画もあるようです(下部に柏原市立歴史資料館にて展示される出土品を掲載)。


*写真は2018年6月と2022年3月撮影のものとが混在しています。


当社一の鳥居。奥は安宿寺(安福寺横穴群あり)。鳥居の手前に安福寺西側P有り。当社はこの寺院の鎮守社であり、停めて大丈夫だろうと思います。



東側P。奥は公園になっているため無断駐車が多いのだろうと思います。