瑜伽神社
(ゆうがじんじゃ)


大和国添上郡
奈良市高畑町1059
(P無し、近隣コインP等利用)

■祭神
宇迦御魂大神


奈良市「高畑町」の小丘頂、「瑜伽山(西方院山)」に鎮座する社。麓からの長い石段を登った先に社殿が設けられ、「ならまち」の中では最高所に位置します。
◎社伝によると、飛鳥京の鎮守であった「飛鳥の神奈備(飛鳥坐神社のこと)」を平城京遷都の際に当地に遷し祀ったことを起源としています。したがってこの山を「平城(なら)の飛鳥山」と称するとも。
◎平安期になり藤原氏の権勢が一層盛んになるにつれ、興福寺大乗院がこの山麓に創建。当社はその鎮守社として崇敬されるようになり、その宗論の「瑜伽」となったとのこと。
大乗院が創建されたのは寛治元年(1087年)のこと。「宗論」とは「仏教において、教義とその解釈についての議論」(Wikiより)、「特定の経典をとって宗旨の骨格とし、法義を確立すること」(日本国語大辞典より)。
◎これに対してWikiでは、「もとは元興寺禅定院の鬼門除け鎮守の社で、後に興福寺大乗院が山麓に建つに及び、その守護神として藤原氏等の崇敬を受けた」としています。
元興寺はこの頃既に衰退を始めており、興福寺に取って変わられたのであろうと思われます。
◎これらの由緒沿革を裏付けするとされるのが「大乗院寺社雑事記」。明応三年(1494年)の条に「一後知恵光院御殿建立之分 (中略) 今宮殿御殿 同拝殿仮葺也」とあり、この「今宮」が当社のこととされています。これは飛鳥坐神社を「元宮」、当社を「今宮」とするというもの。
◎ところがこれらの内容を真っ向から否定する説をも挙げています。その「大乗院寺社雑事記」には、「今宮」は春日五社明神を勧請したものと記され、鎮座地も現社地の「瑜伽山」ではなく西隣の「鬼薗山」であると記されると。
「春日五社明神」とは、春日四神に天押雲根命(若宮)を加えた五座のことと思われます。「鬼薗山」とは現在の奈良ホテルが建つ位置。
当社社伝というのはこの「大乗院寺社雑事記」を基にしたものと推されますが、その書には当社ではないことが記されているという、なんとも矛盾したことになっています。つまり「今宮」というのは別に存在した社であると。
◎その「大乗院寺社雑事記」には、当山(西方院山)に鎮座していたのは「新宮」であるとしています。これは大乗院第十二代覚尊という僧侶が祀られていた社であると。
◎当社が宇迦御魂大神を祀る社であるとすることについて、Wikiは以下の説を挙げています。元興寺禅定院の鎮守は天満天神(奈良町天神社

)とし、「奈良坊目拙解」(1735年)の天満天神宮条に、かつて境内にあった稲荷小祠が荒廃していたため「新宮」の地に再興、享保十五年(1730年)に正遷宮が行われたと記されているとのこと。
◎これが真の当社の創建由緒と見て間違いなさそうです。奈良町天神社境内の稲荷小祠を起源とする社であったと。そしていつしか「今宮」に宛てられるようになったのであろうと思われます。ご本殿前には一対の狐の石像物があるとのこと。また石灯籠の火袋に狐の浮彫りが見られ、この説を裏付けています。
◎「鬼薗山」にあったという真の「今宮」については消息が無く、現在は廃絶しているのであろうと思われます。
元興寺の裏鬼門方向に当たる位置には飛鳥神社(京終天神社)が鎮座します。こちらも「飛鳥神奈備」からの遷座であると伝わります。「今宮」がこちらに合祀されていればよいのですが。



「瑜伽山」の頂近くに鎮座。

石段途中の境内社 飛鳥神並社(あすかかんなびしゃ)。瑜伽大神の和魂を 祀るとのこと。



こちらは拝殿、ご本殿は見ることができません。向かって左側の石灯籠の火袋(黄土色の木製部分)の側面に、狐の浮彫が辛うじて確認できます。

拝殿前の万葉歌碑と境内社 一言稲荷社。


境内社。奥は珍しい久恵比古社。ご祭神の久恵比古神は大神神社の摂社 久延毘古神社にて。手前は猿田彦神社。