八阪神社 (宇陀市大宇陀本郷)



大和国宇陀郡

奈良県宇陀市大宇陀本郷1590

(駐車スペース有り、特に通行困難な箇所無し)


■祭神

須佐之男命



「経ヶ塚山」(標高889m)の東麓に位置する「大宇陀本郷」の集落の最高所に鎮座する社。

◎ここは「西山岳」(標高701m)山頂より南側へ300mほど下った地。標高は370m程度。戦国時代には「宇陀三人衆」と呼ばれた秋山氏の本郷城が、当社近くにあったとされます(松永久秀が築いたという説も有り)。

◎「西山岳」は神武東征時の重要なポイントととして知られます。

神武軍は「高倉山」(大宇陀守道の高角神社説・高見山の高角神社説有り)にて国見すると、行く手すべてが敵軍に塞がれていることが判明。そして夢に現れた高皇産霊神のお告げは、「天香山」の埴(土)で拵えた「天の平瓮」「天の手抉」80枚ずつと「厳瓮」で天神地祇を奉るようにというもの。「天香山」へ向かうには敵軍の中を通らねばならず、使者(椎根津彦神・弟猾)は貧しい老夫婦に変装して「笑ヶ嶽」を通ったとされます。そのとき「汚い翁と媼だ」嘲り笑われ、それが山名由来に。その「笑ヶ嶽」に比定されるのが「西山岳」。おそらくは「嬉河原(うるしかわら、屑神社が鎮座)」を通り、「男坂」を経て現在の国道166号を上り磯城へ向かったと考えられます(大宇陀半阪に剣主神社が鎮座)。これは「西山岳」の北側を抜けるルート。

◎ところが「嬉河原」から「本郷」を経て磯城へ向かったという考えも。照巣(阿紀神社旧社地・倭姫命祭祀跡)を経由し、当地、さらに遠阪神社を経由して峠越えをしたのではないかと。

さらに南方の宮奥(下宮奥 剣主神社中宮奥 剣主神社の二社が鎮座)を通過したという考えもできますが。こちらは「女坂」に比定されています。これは敵軍の総大将である八十梟(ヤソタケル)軍が「男坂」に「男軍」、「女坂」に「女軍」、「墨坂」には「おこし墨」(墨坂神社の記事参照)を配備していたという記述から。

◎「剣主社」は剣根命を祀ると考えられますが、神武東征時に椎根津彦神とともに勲功のあった神。剣根命は葛城国造に、椎根津彦神は倭国造に任ぜられています。この「剣主社」の鎮座地は神武東征ルートの可能性があるということになると考えています。

◎その神武東征ルートであることを示唆するのが、境内社として鎮座するという朝原神社。

「天香山」で得た土で作った「厳瓮」で天神地祇を奉った後、「兎田川之朝原」で水沫状になっているところがあり、そこで「呪いの儀式」を行っています。その後は連戦連勝、大和を平定。この「朝原」というのが当社地である可能性も。榛原雨師の丹生神社が有力視されていますが。

◎境内奥には山の頂に通じる道がありますが、フェンスで厳重に囲われ進入を断念。かつての祭祀跡なのでしょうか。

◎当社創建時期に関しては不明。長享三年(1489年)の棟札が最古のものであるとか。これは秋山氏が活躍していた時代のこと。

かつては「天王宮」「牛頭天王社」と称され、現社名は明治に改称されたと伝わります。



車は西側の空地に。一の鳥居は20mほど先に。

一の鳥居

一の鳥居から参道と反対方向。かつての参道であったように見受けられます。

一の鳥居脇に鎮座する境内社。祓戸社なのでしょうか。



過疎集落であり、石段も多く高齢者には大変な作業なのでしょうが、境内はとても美しく維持管理がなされています。


二殿並びます。


左殿(向かって右殿)がご本殿、右殿(向かって左殿)は相殿でしょうが詳細の確認はできていません。




磐境らしきもの。


奥への登拝ルートのようです。

あまりに厳重なため登拝には許可が必要なのかもしれません。頂はすぐそこに。