剣主神社 (大宇陀区半阪)


大和国宇陀郡
奈良県宇陀市大宇陀半阪79
(いつも社前に寄せて停めています)

■延喜式神名帳
剣主神社の論社

■祭神
健速須佐之男命
経津主之大神
葦原醜男之大神


大宇陀の奥深く、「馬取柿(まとりがき)」や「嬉河原(うるしがわら)」といった集落のまだ奥地の集落の、さらにその外れの山の中腹にひっそりと鎮座する社。地名は「半阪(はんさか)」、あるいは「中山」とも呼ばれ、同名他社と区別するため「中山ノ剣主神社」とも。
◎式内社 剣主神社は現在、「宮奥」と称される当社から南へ10kmほど下った地に鎮座する剣主神社が宛てられています。「中宮奥」の剣主神社「下宮奥」の剣主神社の二社有り、比定社は「中宮奥」の方。当社はこの社から勧請されたものと考えられているようです。
◎ただこの社とて、江戸時代に創建されたと考えられ、本来はその御神体である「岳山(だけやま)」山頂に座す巨岩(社殿無し)から直接、神霊を遷したとするべきでしょうか。「宮奥の剣主神社」の創建は1664年、当社「中山の剣主神社」の創建は1624年と社殿造営に関しては当社の方が先行しています。
◎その「中宮奥」の剣主神社のご祭神は剣根主之命(剣根命)。ところが本来は山頂の白色の珪石巨岩、白石明神を祀っていたらしく、後に降臨伝承がもたらされたことかと思われます。
◎これとは別に当社を「式内社 剣主神社」に宛てる説も。江戸初頭の創建以降は「天照皇大神宮」と称していたらしく、まったく関連が見られず勧請というのも怪しいところ。当社こそが式内社であったのかもしれません。他に祈雨止雨の神であるとするものも。
◎さらに「中宮奥」の剣主神社の少し奥まったところに「下宮奥」の剣主神社が鎮座。こちらも式内社であるとして届け出たために、ご祭神は剣主大神剣主大神とされていますが、「式内調査報告」においては天照大神。江戸時代には「神戸大神宮」と称されていたようです。つまるところ、式内社の比定は確定できないといったところかと。
剣根命が登場するのは神武東征後において。つまり論功行賞により、葛城国造とされたもの。特に目立った活躍が記されずに論功行賞のみが記されるのが謎ですが、当地は東征ルートに関わりがあります。それが「男坂」の傳稱地。地名の「半阪(はんさか)」は、「おさか」→「なんさか」→「はんさか」と転訛されたとも。
◎当地周辺には「塞(さひ)」の神格を持つ神が多く祀られています。これは神武軍の行く手を阻んだ賊軍に対して、結界を張ったものとも考えられないでしょうか。剣根命はその剣をもって襲いかかる敵から神武軍を守った、つまりその剣が「塞」となったのではないかとも考えています(「嬉河原」の屑神社、「馬取柿」の白髭神社など)。そうすると当社こそが「式内社 剣主神社」の後継社だったのではないかと考えています。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


国道166号より「半阪」集落の最端に、このような自動車整備工場があります(下から登って来ました)。その角を左に曲がります。

その角には「男坂傳稱地道」の石碑。記事は→こちらにて。

「関係者以外の通行を禁止」と勝手なことが書かれていますが、もちろん無視して登ります。もちろん「NTTドコモ専用通路」ではなく、当社参道を勝手に整備したもの。

そのNTTドコモの建物を過ぎ、200m足らずで当社鳥居に。