(太朝臣安万呂を祀る小杜神社)



【古事記神話】序文 (~その9 元明天皇 後編前半)


(元明天皇は)舊辭の誤り忤へるを惜しみ 先紀の謬り錯れるを正さむとして 以て和銅四年九月十八日 臣安萬侶に詔して稗田阿禮が誦む所の勅語の舊辭を撰録し以て獻上せしむる者 謹みて詔の旨の隨に 子細に摭ひぬ 
然れども 上古の時は 言と意と並び朴して 文を敷き句を構ふること 字に於て即ち難し 已に訓へるに因りて述べる者は 詞心に逮ばず 全て音を以て連ねたるは 事の趣更に長し 是れを以て今 或いは一句の中に 音訓を交じひて用ゐ 全て訓を用ゐて録す 即ち 辭理の見え叵しは 注を以て明らかにし 況んや意の解り易しきは 更に注を非ず 亦た 姓日下に於て玖沙訶と謂ふ 名帶に於て多羅斯と謂ふ 此の類の如く 本の隨に改めず


【大意】 
元明天皇は旧辞や先紀の誤りがあることを残念に思い正そうとしました。和銅四年(711年)九月十八日に臣下の私(太安萬侶)に詔され、「稗田阿禮が暗誦している勅語の旧辞を、子細に渡り編纂して献上するように」と。
ところが上古の時は言葉も意味も質朴で、文章にするのは難しい。漢字の訓だけで述べようとすると漢字が思いつかず、音だけで述べようとすると長くなりすぎます。音訓を交えてみたり、訓だけで記してみたり、注釈を付けてみたりもしました。姓の「日下」は「玖沙訶(クサカ)」、名の「帯」は「多羅斯(タラシ)」といったような類いは本を改めずそのままにしています。


【補足】
◎「前編」と「後編」の2回に分けるつもりでしたが、「後編」をさらに2回に分けてしまいました。さほど難解な箇所も無かったのですが。
◎太安萬侶公がかなり苦労した様子が伝わります。言い訳?ともとれなくもないですが…。
◎この特異な表記が、「古事記」を江戸時代まで埋もれさせてしまった原因の一つとも言われます。「へんてこりんな書」、「訳の分からん書」と思われてしまったと。
◎この記述を見る限り、やはり稗田阿禮は実在したのではないかと。そして霊能者の如く振る舞っていたのかも…。