布氣皇舘太神社
(ふけこうたつだいじんじゃ)


伊勢国鈴鹿郡
三重県亀山市布気町1663
(未確認ながら境内東側の路地から進入し境内に停められると思います)

■延喜式神名帳
布氣神社の比定社
忍山神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
天照大御神
豊受大神
[合祀] 宇迦之御魂神 火之迦具土神 大山津見神 大名牟遅命 菅原道真 火之夜芸速男神 木花佐久夜比売命 宇都志国玉神 天宇受女命 五男三女神 帯中日子命 広国押武金日命 建速須佐之男命 猿田彦神 品陀和気命 稲田比売命 高御産巣日神 手力雄命 彦狭知命 手置帆負命


亀山市「布気」に鎮座する社。社名からも地名からも多くを期待させられます。
◎式内社 布氣神社とも、式内社 忍山神社とも、また元伊勢「奈其波志忍山宮(なごはしのおしやまのみや)」とも。これは東方すぐに鎮座する忍山神社も同様。上記3つがどちらの社かに該当すると考えられ、現在は「式内社 布氣神社」が当社に、「式内社 忍山神社」と元伊勢忍山神社にということで概ね落ち着いているように見受けられます。ところが後述のように、そう簡単には片付けられない複雑な歴史があるようです。
◎当地は、すぐ西に縄文早期から室町時代にかけての複合遺跡である「大鼻遺跡」があり古代から人が住み着いた地。南に「鈴鹿川」が流れ、古代は海もそう遠くなかったはず。内陸10kmほどの加佐登神社が海際であったと考えられています。また一の鳥居前は東海道であり、要衝の地であったかと。
◎当社の由来は垂仁天皇十八年、天照大神が「忍山」遷幸の際に大比古命が神田・神戸を献じたことに由来すると社頭案内板にはあります。
そして「九々五集」という書には「高野大神宮 関氏ヨリ続テ亀山御城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(以下略)」とあるようで、続けて同書巻末の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄田川市立病院ノ宮ハ豊受皇太神宮ノ荒魂ノ御神ナリ 夫レ神戸ト申侍ルハ 人王十代崇神天皇七庚寅(カノヘトラ)歳奉勅命テ諸国所々ニ御舘ヲ改メ 其ノ郡ノ宗廟トシテ荒魂ノ御神ヲ社(まつる)ノ神戸ナリ」(平仮名と片仮名が混じって書かれているため片仮名に統一)と掲げています。
◎まず「高野大神宮」と称されていたこと。これは豊受大神宮(記事未作成)の荒魂を祀る別宮 多賀宮と同様に荒魂を祀る社であると。したがって読みは「たかのだいじんぐう」かと。第10代崇神天皇の勅命で各郡の宗廟として荒魂を祀る云々とありますが、これは紀からの引用と思われます。崇神天皇即位七年の条に「すぐに八十萬群神を祀った 天社・国社及び神地・神戸を定めた」とあります。この記述が当社案内板に対応するものかと。
◎一方で三重県神社庁は、「旧野村」字に「布気林」という所があり、そこから「布気神社」と称されたとしています。「野村」というのは現在の忍山神社が鎮座する地。
「忍山」に関しては忍山神社にて伺うと、当地一帯であると。明確な位置は特定できていないようです。
◎以上を総合的に見て、どちらがどちらの式内社であったか、また元伊勢はどちらかということに関して、容易には判断しかねるように思います。おそらく「大鼻遺跡」までをも含めて、周辺2km余りが「特別な地」であったのではないかと考えています。
◎「布気」については、「誓約(うけひ)」からの転訛が想定され宇氣比神社も近くに鎮座しますが、さらに深い意味を持つ言葉であったようにも思います。今後の課題の一つにしています。





こちらは参道の反対側に立つ石碑。こちらが本来の参道だったのでしょうか。