☆ 垂仁天皇 菅原伏見東陵 (宝来山古墳)



大和国添下郡
奈良市尼ヶ辻町字西池
(P無し、いつも入口前に停めています)



第11代垂仁天皇の治定墓。
全長227m(一説には240m)もの巨大な前方後円墳、4世紀後半のものとされています。

なぜか垂仁天皇陵だけがぽつりとこの地に。
この時代の政権の中枢は城上郡「纏向」にあり、垂仁天皇の宮も「纏向玉城宮」。およそ20kmほどは離れています。

前後の天皇の陵墓は大和盆地の南東部「纏向」に集中しているため、疑いがもたれています。

記には「菅原の御立野の中」、紀には「菅原伏見陵」とあり、これらをもってするなら当墓で間違いないのでしょうが、そもそもこの記述自体が間違っているという考えも。

つまり記紀編纂時にはすでに分からなくなっており、土師氏の由縁から当地と混同されてしまったというもの。

野見宿禰神が、それまでの殉死の習慣をやめて代わりに埴輪を進言云々…の伝説は、何らかの混同があったのかもしれません。
ところが陵墓に対しての間違いは、当時のたかだか400年程度の間には起こり得ないと思うのですが。

第20代安康天皇 菅原伏見西陵は、これほどの巨大古墳ではない時代なので治定間違いは起こり得ると考えます。

さらに北方には「佐紀盾列古墳群」がありますが、こちらは垂仁天皇皇后の日葉酢媛陵から形成されたとも言われます。或いは垂仁天皇陵をも含み、当古墳から形成されたとも。

これほどの大規模な古墳、垂仁天皇でなければ誰の古墳なのでしょうか。

なお周濠内に田道間守の墓に仮託される小島があります。江戸や明治の図絵には描かれておらず、周濠の拡張工事を行った際に土手の一部を残して小島にしたという説も。

そもそも田道間守の墓に関する記述は、「天書(あまつふみ・あめのふみ)」という奈良時代末期の歴史書にのみあります。そこには垂仁天皇陵の近くに葬ったと。周濠内にとは書かれていません。計7ヵ所確認されている陪塚のいずれかという可能性も。

垂仁天皇の勅命で、「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」を求めて常世の国に派遣された田道間守。ついに見つけて戻ってきた時には天皇は既に崩御。嘆き悲しみ自殺(絶食し餓死)を図った…(参照 →【書紀抄録】田道間守 ~忠義に生きた名臣)。

本当の墓の場所はともかく、歴史ロマンを追い求めるのなら、この周濠内の小島でいいのではないかとも思っているのですが。


■ 「大美和」第144号への寄稿
(皇學館大学教授 荊木美行氏)

氏も当古墳を垂仁天皇陵であると考えられています。

━━垂仁天皇の陵墓伝承は、天皇が迎えた后妃の出自と関係があるのではないかと考えている━━と。

垂仁天皇ははじめ狭穂姫を后妃としましたが、兄と謀叛を企てその戦いで自害(参照 →狹穗姫・狹穗彦 禁断ロマンスと「黒髪山」)。
すると今度は日葉酢媛命を后妃に入れています。

狭穂姫が亡くなる遺言として、丹波国にいる丹波道主命の五人の娘(長女が日葉酢媛命)を後宮に推しています。つまり狭穂姫を母体とする集団と、日葉酢媛命を母体とする集団とが深く結びついていたとみています。

━━菅原は、一団の勢力範囲であって、そこに陵墓が営まれたということは、彼らが垂仁天皇をみずからの勢力圏に誘導したことを意味する。(中略) 佐紀を拠点とするグループにそれを可能にする力があったからであろう━━

これは応神天皇や顕宗・仁賢天皇にも同様の事例がみられます。

その史実性については、以下の2点を付け加えています。
◎規模や形状からみて王権の中心にいた人物とみられる
◎築造推定年代が在位推定年代と重なる

これらを踏まえ、
━━佐紀のグループは、みずからの勢力範囲に大王陵を「誘致」することで、その権勢を誇示しようとしたのであろう━━と結論付けています。

*写真は2019年3月撮影のものです。


反対側より。



「伝田道間守墓」。陵墓に寄り添うように浮かんでおり、哀愁を誘います。

陪塚の一つ。