☆菅原伏見西陵(安康天皇陵)


大和国添下郡
奈良市宝来4-29
(P無し、西50mほどのところに路駐しました)


第20代安康天皇の治定陵墓。

安康天皇と言えば…
なんと言っても「殺害された天皇」。

正史において「殺害された天皇」は
安康天皇と崇峻天皇の二帝のみ。

自害した、配流先で亡くなった天皇もいますがそちらは除いて。

殺害は義理の息子(眉輪王)によって。
「眉輪王の変」と呼ばれています。

安康天皇の皇后は中磯皇女(ナカシノヒメミコ)。
(別名、中蔕姫命や長田大娘皇女など)

元々は大草香皇子の妃で、眉輪王が生まれていますが、
大草香皇子は安康天皇により殺害されました。

これは使者の讒言を信じたことによるもので、
つまり無実の罪を着せられ殺害されたもの。

中磯皇女は安康天皇の皇后となりますが、
眉輪王は実父が安康天皇に殺害されたことを知り、やってしまったというわけです。

この時代は皇族内での殺った殺られたが横行した時代。
同母弟は近辺の殺戮を繰り返した雄略天皇。
さらに同母兄は軽皇子で、同母妹の軽大郎女(衣通姫)で、近親相姦(「衣通姫伝説」)をやらかしています。そして流罪の上に自害(異説あり)。

安康天皇も自業自得とはいえ…。

謎であるのは
祟り神とされていないこと。

崇峻天皇にしろ、崇道天皇にしろ、大変な祟り神。
丁重に丁重に鎮められています。

井上内親王にしても然り。

「崇」が付く天皇は他に崇神天皇がいますが
こちらは祟られた側。

使者の嘘を信じて間違えて殺してしまったおバカさん!殺られても仕方ないか!
ことがことだけに、そんな生易しいものではないと思うのです。

何せ「天皇が殺害された」のですから。
しかも史上初めての天皇殺害。

国家がひっくり返りそうなほどの動揺と危機が訪れたことと思います。

「安康」と至って平和な諡号がおくられました。
「安」も「康」もどちらも「やすらか」という意味でしょうか。

諡号の通りに「やすらかに鎮まって頂きたい」という願いかとは思うのですが、
ことの大きさと諡号とが見合っていないように感じます。

この事件には裏があるように思えてなりません。

なお当墓は安康天皇陵の治定墓ですが、
おそらく昔の城跡であり墓ではないと考えられています。
形は「方丘」とされており、形からしても城跡なのかも。

安康天皇はいったい
どこで眠っておられるのでしょうか。

垂仁天皇陵の陪塚(兵庫山)という説もあるらしいですが。

また山邊郡にあったとされる宮跡には、
穴穂神社というこれまた到底祟り神を祀る神社としては相応しくないほどの、畳1~2枚程度の境内の社が鎮座します。