比自岐神社


伊賀国伊賀郡
三重県伊賀市比自岐683
(隣の公園に10台ほど駐車可)

■延喜式神名帳
比自岐神社の比定社

■旧社格
県社

■祭神
比自岐神
[配祀] 天児屋根命 天照大神
[合祀] 劔根命 応神天皇 建速須佐之男命 火産靈神 大物主神 宇迦之御魂命 木花佐久夜比売命 大山祇神 伊邪那岐命 大綿津見神 菅原道真


「木津川」の支流「比自岐川」の南岸、旧「森村」に鎮座する社。川沿いに東西に細長い集落を形成、鎮座地の「比自岐」、隣村の「岡波」とを合わせて100世帯、人口300人ほどの過疎地。
◎創建年代、由緒ともに古記録を失っており不明。式内比定社であることから、延長五年(927年)には既に創建済み。
「天王宮」や「大森神社」と称された時期もあったとのこと。かつての神域は「比自岐の森」と称され、1ha余りもあったようです。
◎御祭神は比自岐神、比自支和気氏(イガノヒジキワケノウジ)の祖神とされ一族が奉斎した社とされます。これは当社側の見解と、他に「神祗志料」「大日本史神祗志」によるもの。
◎比自支和気は「令集解」(「養老令」の私撰註釈書)に以下のように記されます。
━━大和国高市郡に住む垂仁天皇の妾腹の子の円目王(圓目王、ツブラノメノオオキミ)が、伊賀の比自支和気の娘を娶って妻とした。およそ天皇崩御の時は比自支和気が殯所に至って、そのことに供え奉る。よってその二名を「禰義(ねぎ)・余此(よひ)」という━━(大意)とあります。

比自支和気は垂仁天皇の子であることは記紀には記されず、この「令集解」が初出(他に「令義解」等にも記される → 下部参照)。この話には続きがあり、それは以下の通り。

━━ところが後に雄略天皇が崩じた時に、その比自支和気の子孫が全く絶えたので、七日七夜御食を奉らなかった。これにより御霊が荒び給うた。そこで諸国にその氏人を求めたところ、ある人の言によって、この比自支和気の女子のあることがわかり、上の婚姻関係を知って、円目王の妻を召して問うと、わが氏は死絶えて妾一人あるのみだと答えた。そこでそのことを負わしめたところ、女は武器を扱うことは困難だから、その職を夫の円目王に移して供奉せしめられたい願うたので、円目王をして殯宮の奉仕をせしめると御霊は和み給うた。これによって今日以後、手足の毛が八束と長くなるまで遊んでいてよい。だから遊部というのだ━━(大意、訳文は国文学者・民俗学者である西角井正慶氏を引用)とあります。
第11代垂仁天皇から第21代雄略天皇までは、大きな時代の開きがありすべてを鵜呑みにはできないものの、垂仁天皇または雄略天皇の時代に、このような類いのことがあったのだろうと解してよいかと思われます。
「遊部」についてその西角井正慶氏によると、「令義解」(「養老令」の官撰註釈書)を引き、「幽顕の境を隔てて凶癘の魂(きょうれいのたましい、=死霊におかされた人間の霊魂)を鎮める氏」としています。そして「遊び」については「音楽を奏しまた舞踏すること」と。ただし雄略天皇の亡霊が荒ぶったなどとあることから「鎮魂技術に関係ある部曲の称に違いない」としています。
◎また「比自岐」は「火食」とも書かれ、死者と一つ竈で共食していたとされます。これが「子孫が全く絶えたので、七日七夜御食を奉らなかった…」に繋がるものであろうかと。
以上から比自支和気氏は代々、「遊部」として天皇の殯に奉仕する氏族として仕えていたものとみられます。
現在は忍者の里などとされひっそりとした村里のイメージがある伊賀ですが、朝廷との繋がりも強く、また大和朝廷と皇大神宮との間に位置する重要な地域でした。
丘陵谷間の川沿いに営まれた集落ですが、北側に迫る丘陵地の裾部、北西方向には「石山古墳」を始め、「才良吉田谷古墳群」が築かれています(すべて未拝)。「石山古墳」は全長120mの前方後円墳。3段の埴輪列を有し、多数の見事な家型埴輪等が出土。副葬品も豪華なもので、4世紀後葉に築造された地域の首長級墓とみられます。石槨は3つあり、妄想が差許されるのであれば、比自支和気とその娘、あともう一人(神)はその近親者ではないかと。
◎御祭神については他に、「神社覈録」「伊水温故」等が三保津姫命を、「神名帳考証」が道敷神(チシキノカミ)を宛てているものの、根拠に欠けるかと。
「神名の語源辞典」(志賀剛氏)には、「比自は泥・粘土、岐は村、すなわち土器や埴輪等を造る粘土の多い村である」としています。比自支和気の職掌とは関連がみられず、他の氏族も居住していたのかもしれません。

また南東2kmほどのところに比々岐神社があり、社名の近似性から何らか関連があるのかもしれません。

◎多くの合祀神が見えるのは、明治の合祀政策を強力に進めた三重県によくみられるもの。村内及び境内の計33社を合祀したとのこと。
かつての境内社であったという劔根命を祀る社が合祀されています。
◎隣には少し散策できるほどの公園が整備されていますが、これはかつての神域。平成十年に起きた大型台風で境内に残る樹齢四百年を越える大木をなぎ倒し、千古を袴る欝蒼とした杜の形態は一瞬に壊滅したとのこと。被災した社殿の再建とともに植樹も行われ、復興がなされたようです。
◎例祭の「祇園祭」は伊賀市の指定無形文化財。詳細は案内板を写した下部写真にて。

*写真は2018年3月と2024年8月撮影のものとが混在しています。












社前の道標の石碑。「東奥山あたこ道」「右いせみち」でしょうか。

裏側は「右うへの道」。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。