コンドル(2)
なぜ?
監督のシドニー・ポラックは筋金入りのリベラリストとして知られている。このような映画を作る際にもアンフェアなことをするわけがない。
ここは「読み屋」達に倣ってアバン・タイトルからのキーワードを追ってみよう。
此処はセントラル・パークに程近いニューヨークの一角で,表に「アメリカ文学史協会」というプレートの掛かったオフィスである。
遅刻常習犯のターナーが軽バイクで出勤途中にも事務所では仕事が進んでいた。
自動スキャナ/読み取り装置が今読んでいる資料は「週刊ダイヤモンド」である。二階の執務室では三人のメンバーがある推理小説について議論している。
「被害者は胸の下に一発喰らって死んでいる40代の男性。しかし入弾口はあるが出弾口が分からない。」
「ターナーに聞いてみよう」
階下では上司の博士が「ターナーが勝手にハイデッガー博士に<ペルシャ湾情報>を請求した」と言っている。
ターナーが遅れてやってきた。監視カメラを覗いておどけている。ロックを解除するためデスクの引き出しをあけた受付係の女がその画像をターナーと確認してボタンを押した。
引き出しにコルト45口径が忍ばせてあるのが見える。
遅れを叱責する博士に対して「10時20分から雨になる」という。
手紙らしきものをターナーに手渡しながら,ターナーに対して博士は「本部から今朝届いた,君のセオリーを裏付ける証拠なないそうだ」。
二人の会話からターナーは技術系大学(恐らくMIT)の出身者であり,この仕事は秘密厳守で友人もできないから好きではないことがわかる。
窓越しにターナーの言うとおり雨が降り出したのが見える。
仕事を始めたターナーは何か英語の資料の中の「西棟」という文字にマークを付けた。
ターナーが来たので早速ひと目で中国系と分かるターナーの恋人がターナーの執務デスクに来て疑問を解いてもらう。たちどころに疑問は解決した。
―氷の弾丸を詰めた38口径さ。
―どうしてすぐに分かるの?
―漫画で読んだことがある
一方ターナーは,女に字を書いて質問する。
―「天」てどういう意味?
一般的な答えをして,尚「どうしてそれが重要なの?」と聞く女にターナーは言う。
「売れない小説がトルコ語,アラビア語に訳された。スペイン語にも。」
さて,読者はこれから何を読み取るだろうか。封切り時は1975年,日本ではオイルショックたけなわで,トイレットペーパー騒動のあった時期である。事務所の外には時計を見ながら待ち伏せするマックス・フォン・シドーの姿が見えている。雨が降っている。殺し屋の別動隊はハイデッガー博士の事務所の方に向かっている。この時点まではCIAという名前は一度も出ていない。答えは次回。
コンドル(1)
「スパイ・ゲーム」に先立つこと26年前,ロバート・レッドフォードは同じCIAの要員として「コンドル」に出演した。
この映画は何度観ても,というか観るたびに怖くなる映画だ。昼時にほんの一時だけ襲ったにわか雨を狙うようにやってきた,雨合羽を着た郵便配達人を装った殺し屋(そこまで計算したということである)にロバート・レッドフォードが所属する「読み屋」と呼ばれる情報収集を目的にした研究所のメンバーは全員,サイレンサーで殺されてしまう。雨をものともせず裏口から近所のハンバーガー・ショップに行っていたターナー(レッドフォード)を除き。
指揮していたのはマックス・フォン・シドー演ずる,おそらく北欧出身の一匹狼のインテリ殺し屋。映画通なら知っていると思われるが,ベルイマンの「第7の封印」で死神をやった俳優である。
下っ端も下っ端,戦争などとは程遠い,単に外国の書物を読んでレポートするだけのターナー達がなぜそんな目に遭わなければならないのか。答えの1つは事務所の棚の中に見えている調査対象が語っている。なんと,「週間ダイヤモンド」や「文芸春秋」まであるのだ。そしてそれを小型コンピュータが次々と読み取って行く。なんの為に?(続く)。
Who is the third man?
情事の終わり
「第三の男」と並ぶグリーンの傑作だが,誤解されているという意味でも二つを同時に論じる必要があるようだ。誤解の原因は日本人にはキリスト教についての知識が少ないことにある。特にプロテスタントとカソリックの重要な違いについては。従ってこの種のコメントをする時には例えば遠藤周作とか,信頼できるキリスト者の意見を聞くに限る。遠藤周作の場合はカトリック作家の代表としてグリーンとシムノンを取り上げ,作品の解説を交えて問題の在り処を述べているからだ。ワタシの場合,母がクリスチャンであったため幼い頃からある程度の蓄積があるといえば言える。
玉葱のスープが嫌いだ,ということから美しい人妻(サラー,デボラ・カー)との情事に突き進む主人公(ヘンドリックス,映画ではモーリスという名になっている)。彼女の夫は主人公により徹底的にコケにされる。「バスに乗るとすぐにバス賃の小銭をじっと握り締めていないと落ち着かないような小心男」とか。ところがその夫からこともあろうに妻の浮気について相談され,探偵まで紹介する。そんな事情がありながら,彼女の自宅(つまり依頼者の自宅)でも情事に耽る二人。男が物音に気づき,仰向けになっていた女に夫が帰ってきたのではないかと訊くと,こんな言葉を呟く。
「あれは違うわ。夫が帰って来たときは階段の3段目がいつもギーっと鳴るから分かるの」。するとすぐ後で階段がギーッと鳴った。
なぜ「いつも」なのか。主人公はこの女(デボラ・カー)には自分以外にもう一人男がいるのではないかと疑いはじめる...
ドイツ軍による空襲が続くロンドンで,二人は逢瀬を重ねていくが,やがて思いがけない破局がやってくる。彼女が失踪したあげく死んでしまうのだ。友人である夫を慰める言葉は彼には無かった。それにしても不可解な彼女の行動。そして終に第三の男の存在が主人公にも明らかになる。
それは信仰,つまり「神」だったのだ。キリスト者の神に対する愛は人間の男女間の愛に両立しないものなのか。聖書にははっきり書かれているが。
「私は仲たがいをさせるために来たのである」
カトリックの神(と言うのがあるわけではないが)が問題にされるとき,決まってある風景が浮かび上がる。それはどこか人間の目の高さより高いところから俯瞰する場面である。シムノンの「汽車を見送る男」にも主人公が地上を見下ろしている感覚に捉われる描写がある。第三の男の観覧車のシーンを思い出していただきたい。このギーッと鳴る階段のシーンも俯瞰を感じさせる描き方なのである。どこかずっと高いところから人間を見下ろしているような。この感覚は日本の作家では唯一宮沢賢治が持っていたものだ。
人間とは,ハリー・ライムの言葉によれば「インタレストに囚われているものたち」である。英語の真髄とも言えるこの言葉は「利息」であるとともに「関係」という意味を持つ。
一方「一神教」は関係ではなくて「絶対」を要求するものであり,他力本願の徹底した現世否定である。カトリックは浄土宗に近いのではないかとこの頃は考えている。
