Who is the third man?
情事の終わり
「第三の男」と並ぶグリーンの傑作だが,誤解されているという意味でも二つを同時に論じる必要があるようだ。誤解の原因は日本人にはキリスト教についての知識が少ないことにある。特にプロテスタントとカソリックの重要な違いについては。従ってこの種のコメントをする時には例えば遠藤周作とか,信頼できるキリスト者の意見を聞くに限る。遠藤周作の場合はカトリック作家の代表としてグリーンとシムノンを取り上げ,作品の解説を交えて問題の在り処を述べているからだ。ワタシの場合,母がクリスチャンであったため幼い頃からある程度の蓄積があるといえば言える。
玉葱のスープが嫌いだ,ということから美しい人妻(サラー,デボラ・カー)との情事に突き進む主人公(ヘンドリックス,映画ではモーリスという名になっている)。彼女の夫は主人公により徹底的にコケにされる。「バスに乗るとすぐにバス賃の小銭をじっと握り締めていないと落ち着かないような小心男」とか。ところがその夫からこともあろうに妻の浮気について相談され,探偵まで紹介する。そんな事情がありながら,彼女の自宅(つまり依頼者の自宅)でも情事に耽る二人。男が物音に気づき,仰向けになっていた女に夫が帰ってきたのではないかと訊くと,こんな言葉を呟く。
「あれは違うわ。夫が帰って来たときは階段の3段目がいつもギーっと鳴るから分かるの」。するとすぐ後で階段がギーッと鳴った。
なぜ「いつも」なのか。主人公はこの女(デボラ・カー)には自分以外にもう一人男がいるのではないかと疑いはじめる...
ドイツ軍による空襲が続くロンドンで,二人は逢瀬を重ねていくが,やがて思いがけない破局がやってくる。彼女が失踪したあげく死んでしまうのだ。友人である夫を慰める言葉は彼には無かった。それにしても不可解な彼女の行動。そして終に第三の男の存在が主人公にも明らかになる。
それは信仰,つまり「神」だったのだ。キリスト者の神に対する愛は人間の男女間の愛に両立しないものなのか。聖書にははっきり書かれているが。
「私は仲たがいをさせるために来たのである」
カトリックの神(と言うのがあるわけではないが)が問題にされるとき,決まってある風景が浮かび上がる。それはどこか人間の目の高さより高いところから俯瞰する場面である。シムノンの「汽車を見送る男」にも主人公が地上を見下ろしている感覚に捉われる描写がある。第三の男の観覧車のシーンを思い出していただきたい。このギーッと鳴る階段のシーンも俯瞰を感じさせる描き方なのである。どこかずっと高いところから人間を見下ろしているような。この感覚は日本の作家では唯一宮沢賢治が持っていたものだ。
人間とは,ハリー・ライムの言葉によれば「インタレストに囚われているものたち」である。英語の真髄とも言えるこの言葉は「利息」であるとともに「関係」という意味を持つ。
一方「一神教」は関係ではなくて「絶対」を要求するものであり,他力本願の徹底した現世否定である。カトリックは浄土宗に近いのではないかとこの頃は考えている。
