映画探偵室 -1986ページ目

08/15

このタイトルから映画の題名を当てられる人はそう多くないだろうと思う。「将軍たちの夜」である。自慢する意味で言っているのではない。いくつかのレビューを見させてもらったが,ワタシの思い入れに及ぶものはなかったからだ。原題の「08/15」は15人いる将軍と呼ばれる人の中の容疑者の数8人を表したものである。ドアの隙間から目撃された容疑者の軍服には赤い線が3本入っていた。この事件をオマー・シャリフのゲシュタポが追求するのだ。実際に起きたヒトラー暗殺計画がこの犯人が逃げおおせることができた理由として描かれている。ワタシはひょんなことから学生時代にドイツ語の原作を読んだことがあり,実際に映画を見るまでそれが原作であることに気づかなかった。幸いにも現在はDVD化されている(ただし品切れ状態らしい)。ナチス・ドイツの悪行を追及し,戦争の悲惨さ愚かさを追求している,というのは確かだが,私にはそれ以上の人間の業(運命)のようなものが見える気がする。特に「芸術家」と言われる人の運命について。主人公の性的変質者である将軍をピーター・オトゥールが演じているのは,はまり役というにはあまりにスゴイ。あのエメラルド色の目に見据えられたら,全身の力が抜けてしまうだろう。もちろん,それを知っていてプロデューサーのサム・スピーゲルが起用したのだ。「アラビアのロレンス」で発掘したピーター・オトゥールを。
ヒトラーが才能の無い(あるいは自分の才能の無さに絶望した)画家であったことは有名な事実である。当時のウィーンにはエゴン・シーレやクリムトなど,後にヒトラーが「退廃芸術」と呼んだ画家たちが活躍していた。
圧巻は付き人の伍長(トム・コートネイ)に案内させてドイツ占領下はパリの(この辺りの事情は後に「パリは燃えているか」で描かれている)ルーブル美術館でゴッホの自画像に見入る場面である。そして事件の犯人であることに気づいた伍長(従って後に唯一の生き証人となる)に話した言葉である。
「平和な時代だったら,私は狂った犯罪者ではなく,ゴッホのように,狂ってはいるが芸術家として幸せであれたかも知れない。」
代史を専門とする人たちの中には「ヒトラーは結局,世界をキャンバスにして凄惨な陰画を描いたのだ」という人もいる。実際に残されているヒトラーの絵は思ったより穏やかで平凡な水彩画だ。

逆西部劇:「真夜中のカウボーイ」

東から西へのフロンティアではなく,西から東への逆行。そんな感じを与える御上りさんカウボーイが荒んだニューヨークで体験する現実。これはタクシー・ドライバーにおけるニューヨーク以前の風景だった。ジョン・ボイトがカウボーイの格好をしているのは自分がこれでダンディに見え,モテまくった上,それでヒモ生活が可能になるとお目出度くも考えていたからだった。それが錯覚に過ぎなかったことは,彼にまつわりついてきたのがラッツォ(どぶ鼠)という仇名のオカマ専門ポン引き(ダスティン・ホフマン)であることで分かる。なんと彼の気張ったカウボーイ姿はホモの符牒だったのだ。
この映画のタイトル・ミュージックは別にあるが,私はなぜか同時期にヒットした「ボクサー」(サイモンとガーファンクル)がこのテーマであるような気がしてならない。
- In the clearance stands a boxer, he is a fighter by his trade (四角いマット(clearanceは他にも開拓地という意味がある)に立つボクサーは職業戦士だ)
- Lie la lie, lie la lie lie, lie la lie...(みんな嘘だ,嘘だ,嘘だ….)
悲しい話の結末はさらに悲しい。自尊心を犠牲にしてようやく小金を稼いだ二人がニューヨークを捨て(ニューヨークに捨てられ)フロリダに出かける時になって,はじめてジョン・ボイトに女からやさしい声がかけられる。
「どっから来たの」
「ニューヨークさ」
「まあ,ステキ」
この感覚は地方から首都に出てきた人間でないと分からないだろう。ワタシもかつてはそうだったから。
そしてバスの中でのラッツォの最後のせりふは,「おれ漏らしちまった。」
ある意味で70年代のアメリカを象徴するような映画だったし,あの頃の日本の若者も深く共感した。70年代はそんな時代だった。

「汽車を見送る男」:脱線

前の記事の中でワタシが誤って「汽車を待つ男」としてしまった箇所があったが,その言い訳をしたいと思う。洋画という括りからは外れてしまうが,実は映画(TV)製作者の間でも,一部ホラー好きの人にも伝説にまでなっているTVシリーズに「恐怖劇場アンバランス」というのがあり(現在のTVシリーズ「世にも奇妙な物語」はこの後継にあたるかも知れない),ワタシはたまたまリアルタイムで見ていた。恐怖劇場アンバランスは名うてのホラー作家の掌編を円谷プロが特撮を交えて,それぞれ名だたる面々が脚本・監督し,これまたこの俳優がという俳優(岸田森,唐十郎,緑魔子等など)が演じたものである。案内人は青島幸男であり,引き続いて血だらけの手が画面を左から右に移動するとタイトルが出る仕掛けになっていた。あまりの怖さにスポンサーがなかなか付かず,放映枠も11:30となり,ワン・シリーズした後でお蔵になって(スポンサーが降りた)しまった曰くつきのシリーズ。その中で数本は熱心なファンの後押しで映画化され,小劇場などでも上映されたらしいが,私は映画の方は見ていない。このシリーズの他の作品についてはいつかお話するとして,その中に今でも忘れられないものに別役実作の「あの角の向こうには」と「サラリーマンの勲章」がある。この後者がワタシ流に言えば「汽車を待つ男」にあたるのだ。これはおそらく普通のサラリーマンなら一度は経験したであろう,ある日突然日常のコースを外れたい誘惑に駆られ,そのまま蒸発してしまうハナシである。この2編ともおどろおどろしい場面は皆無で,前者は喜劇風にもなっているが,これがジワッと怖くて,後を引く。そのきっかけは,いつもの電車に乗りそびれる(乗らないでみようか,とふと思う)ことだからだ。主人公の中年サラリーマンを梅津栄が,東京で秋田郷土料理を出す小さな酒場をやっているのが富士真奈美だった。このブログの読者には自分の物語を織るのが上手な人が多いようなので,ワタシが書くのはラストシーンだけにする。それぞれの人が自分の人生に置き換えて埋めてみてください。
普通のサラリーマンならまだ会社にいる時間,梅津栄は椅子などもまだ逆さにテーブルに載せられている状態の開店準備中の酒場の片隅で,幸せそうにあの秋田女から教わった「秋田音頭」をゆっくり味わうように低い声で歌っている。
- 秋田音頭です,はい,はいな,きたかさっさ,どん…


富士真奈美ほど美人ではなかったが,ワタシが中央線沿線のある町に住んでいる頃何度か行った秋田酒場に,ワタシにも本当の秋田音頭を教えてくれた女がいた。