「離愁」(15)
列車は海岸沿いを走って終着駅のラ・ロシェル駅に着いた。ここはイギリス海峡に面した有名な古くからの保養地で,そう言えば前の駅にも場違いのバカンスのポスターが貼ってあったことが思い出される。列車はパリを大きく迂回して随分南まで来ていたのだ。ホームに降り立った貨車の連中の行き先もそれぞれだ。
「見知らぬ土地だ」
「海岸にでも行ってみるか」
「俺はアメリカに渡るよ」
「じゃあ,幸運を祈る。オルヴア」
しかし,避難民を誘導する駅のアナウンスを聞いてアンナは怯えを見せた。
「行かないわ。収容所に送られる」
しかしマルセルはアンナの手を引いて一緒に行こうと強く促し,そしてホームを歩き出す。
市役所に設けられた難民用の相談所の前に並んでも,アンナの不安は隠しきれない。
自分たちはここで別れることになるのではないか?
「奥さんに会えるわね」
マルセルは答えなかった。
市役所は既にドイツ側の兵士による検問が行われており,アンナは鉄製の門を通るのをためらった。
中に入ると二人は別々の係官の列にならんだ。マルセルの番が先にやってきて手続きはスムースに進む。
「身分証をどうぞ。宿泊所を提供します。職業は?」
「ラジオ修理工です」
住所,氏名を聞いたあとで係官は言った。
「収容所では仕事もありますよ。」
ちょうどそのとき,アンナの番がやって来た。
「身分証を」
アンナは窮地に陥って立ち尽くす。
助けを懇願する表情のアンナに気づいたマルセルが咄嗟に言った。
「私の妻です。証明書を失くしてしまって」
マルセル側の係官が「あ,そういう人は大勢いますよ。仮証明書を発行しましょう」と言って向こうの係官の場所から申請書を取り寄せ,何事もなかったかのように作業を進めた。
「名前と住所をどうぞ」
マルセルが代わってすべて答える。
「アンナ・デュシェーヌ。」そして生年月日,結婚した日,現住所を告げた。
係官はそのまま仮身分証をスラスラと作成する。
「期限は1週間です。あとで県庁に再交付を申請してください。」
最初の窮地は脱することができた。二人は足早に相談室を後にした。
市役所の敷地内に設けられた避難所は難民ですし詰め状態だが,部屋は沈黙が支配している。アンナは収容所を思い出したのか落ち着かない。窓から外のドイツ兵を見ていたアンナは振り返って声を潜めてマルセルに懇願する。
「お願い。ここを出ましょ。」
「どこへ」
「どこへでも。とにかく」
周りに気づかれないようにと,二人は市役所の裏門から町に出ることにした(続く)。
いらぬ所に探偵登場
ここまで読んでいただいた方はきっとワタシが何か重要な事を隠しているように思われたのではないだろうか。原作を読んでいるなどと言っていい気になりやがって,と。恐らくそれは「この女に子供がいるか,あるいはいたか?」という疑問ではないだろうか。
白状すれば,それは原作にも書かれていない。しかし,シムノンの作品全般を通した傾向からすると,この映画の冒頭で娘の台詞が出てきたのは次の意味であることが分かる。「この娘はいったい,自分の子供なのだろうか。」つまり,妻を,本質的には女性を信じていなのである。それに途中から加わった子供連れの若い母親は片腕のない男に対して「父親は分からない」と言っているではないか。
一方で,アンナの悲劇的表情には単に戦争で追われているという以上のものが見える。赤ん坊の頭をなぜた時や,赤ん坊を抱いたときの表情,赤ん坊の名前を「分からない」といった後泣き崩れたことなど。そしてその前後に必ず爆撃のドキュメンタリが入っていることからすると,ワタシはアンナには子供がいた,しかしもう生きてはいないのだ,と推理する。読者の推理はどうだろうか。
「離愁」(14)
停車した列車からは茫然自失した人々が降りてきて線路脇にへたり込んでいる。ここは陽光の射す美しい田園地帯を貫く土手上の線路なのだ。草原の向こうから赤十字の救護隊がやってきて負傷者を運び出して行く。抱き合ったまま死んだ町医者と酒場女も運び出されて行く。貨車の仲間で生き残った者が運び出しを手伝った。
「この二人,抱き合ったまま死んじまった」
「せめてもさ」
若い母親が運び出されるとき,赤十字の尼僧が赤ん坊を抱いていたアンナに尋ねた。
「おかあさん?」
「いいえ,母親は死んだわ」
「この子の名前は」
「分からない」
たまりかねたアンナは貨車の中に入って嗚咽をこらえようとするが,押さえ切れない。それに気づいたマルセルが背中をさすりながら慰める。
「ひどすぎるわ」「ああ」
嗚咽は長く続いた。
「落ち着いて」
泣き顔を上げたアンナは聞く。
「汽車は」
「心配しないで」
夜になる前に終わらせようと始めた機関車の修理は月の出るころになっても終わらなかった。夜の暗がりの中で溶接の火花だけが飛び散っている。
土手下の草むらではマルセルとアンナが何もかも忘れてしまおうとするかのように愛し合っていた。
朝が来て列車が走り出しても,貨車の扉は閉められたままだ。
マルセルが尋ねる。
「ご主人は?」
「新聞社主だったの。自由を愛し,よく旅行したわ」
外の景色に絵葉書によく登場するような石造りの館らしき建物が見え出してくる。
「ある日連行されて..」
「まるで故人のように話すね」
列車の外には美しい古城の風景がゆっくりと流れている。
「もう2年以上,音信不通ですもの。それから母も捕まった。ユダヤ人だから。そして父も。ユダヤ人の夫だから。次は私よ。」
アンナはマルセルの方に向き直ってたずねる。
「ねえ,終点まで行ったら私はどうなるの」
マルセルは肩をすくめるだけだった。
朝の光の下,列車は田園地帯の中を進んでいく。昨日の悪夢が嘘のようだ。並行して走る自動車隊の黄色いコンバーチブルから,乗っているお嬢さんたちが貨車の男たちに手を振っている。その車が列車を追い抜いて行き,向こうの踏み切りの手前で止まっているのが見える。運転手が降りようとすると,車脇に立っていた紳士が「見るな」と言う。運転手が「はい閣下」と答えるので,なにかと思って草原の方に目をやると,先ほどのお嬢さんたちが草原の向こうで尻を出してしゃがみこんでいる。
突然,昨夜のように戦闘機が急接近して来た。そして走る貨車の中の男たちが見守っている中,お嬢さんたちの上に轟音と共に爆弾が落とされる。戦闘機が飛び去ったあと,そのままの姿勢で横倒しになったお嬢さん達の前を列車は通りかかった。
「見ないほうがいい」と言って貨車の扉は男たちの手で閉められた。
「むごい」
列車は遠くに海の見える地帯へと入りつつあった。絵葉書に出てくるような建物の数がだんだん増えて来る。終着駅のラ・ロシェルが間近になって来たようだ(続く)。