百人一首の撰者・藤原定家。

藤原定家は、「源氏物語」の愛読

者で、どういう思ひで詠んでいた

のだろう。

 

藤原定家(1162-1241)は平安

時代鎌倉時代初期にかけてに生き、

歌道における宗匠といわれる一方、

「源氏物語」などの古典の注釈・

書写に携わる。

 

「百人一首」の撰者であり、権中納

言定家と称し、自身の作品おさめて

いる。

藤原定家の百人一首の歌(97番)

来ぬ人を松帆の浦の

夕なぎに焼くや藻塩の

身もこがれつつ

 

 

藤原定家の百人一首の歌(97番)

 

この歌の意味は。

来ぬ人をまつ(待つ)松帆の浦(名

所・歌枕)に(無風の)夕なぎに、

海草に塩を含ませて焼きつつ恋焦が

れる。と、待てど暮らせど来ない恋

人を待つ、海の乙女の身のやる切な

さを歌い、松帆の浦の情景と重ねて

詠む

 

藤原定家55歳のときに詠んだ歌。

『万葉集』にある笠金村の恋の長歌

を本歌としている。

その歌は、「…淡路島松帆の浦に朝

なぎに藻塩やきつつ海女娘子(あま

おとめ)ありとは聞けど…」

というもので、よく知られた和歌(

本歌)を自分の和歌にしてつくる技

法を定家は生み出した。

 

藤原定家と藤原道長

この世をば…の歌の藤原道長は、藤

原定家の祖先になる。

藤原道長(966-1028)は平安中期

の公卿。藤原北家、摂政関白の藤原

兼家の五男で三帝(後一条・後朱雀

・後冷泉天皇)の外祖父。

この頃紫式部は、宮廷でのことをモ

デルに「源氏物語」にしている。

定家は道長からかぞえると、2長家

、3忠家、4俊忠、5俊成、そして定

家で、6代目になる。

 

 

藤原定家

 

藤原定家(熊野行幸)後鳥羽上皇

鎌倉時代初期にかけて激動の時代に

生きた定家は、後鳥羽天皇の熊野行

幸に随行。

藤原定家の「群書類従」によると、

建仁元(1201)年10月5日に京を

立ち26日に戻る22日間の熊野詣の

旅であった。このとき10月12日に

後鳥羽上皇に随行し藤原定家は、紀

州の切部中山王子から千里の浜の千

里王子社に参拝。

 

イメージ 2

 

熊野古道唯一の海岸沿いの千里の浜の千里王子社(和歌山県日高郡)

 

定家は後鳥羽上皇の歌の中から

「百人一首」の中から次の一首

を入れた。

後鳥羽院の「百人一首」の歌(99番)

人もをし人もうらめし

あぢきなく世を思ふゆえに

物思ふ身は

 

 

 

後鳥羽院の「百人一首」の歌(99番)

 

藤原定家の「百人一首」は、王朝社

会から武家社会への大きな転換期の

和歌である。

藤原定家は仁治2(1241)年8月20

日没享年80歳。墓は京都の相国寺に

ある。

 

 

相国寺(京都市上京区今出川烏丸東入)墓地の藤原定家之墓(左)

 

 

 

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