米海兵隊300人が香椎操車場駅に降り立った

香椎操車場と占領軍 ① 陸軍の軍需施設

香椎操車場と占領軍 ② 捕虜収容所と陸軍倉庫」の続きです。

 

 香椎に降り立った海兵隊は進駐軍なのか占領軍なのか?

当時のことが書かれた資料を読んでいると、「進駐軍」と「占領軍」の言葉が入り乱れている。 日本の敗戦から復興の過程を認識するに於いて、このことは正しく区別した方が良いと思う。 昭和20年(1945年)8月15日の終戦とは、天皇制の維持のみを条件とする無条件降伏(ポツダム宣言)の受諾です。 

 

よって、連合国と日本の間の戦争終結については何も取り決めもされないまま占領統治が続き、実際は休戦状態だったことになります。 日本国の主権が認められたのは、7年後の昭和27年(1952年)4月28日の「サンフランシスコ平和条約」で、この時、連合国との戦争状態が完全に終結したことになります。

 

その間にも福岡の米軍基地は拡大し続けていたのだが、日本の主権が認められた昭和27年までは「占領軍」、それ以降を「進駐軍」と呼ぶ方が正しいのだろう。 しかし、日本の統治に深く係わっていたGHQ(連合国軍最高総司令部=連合国と言いながらも主体は米軍)は、「占領」と言う言葉の使用は日本国民を意識して慎重だったようだ。 でも、僕ら団塊世代は、生まれてから幼少期を占領された状態の中で、両親に育ててもらった。

 

 香椎操車場に降りた米海兵隊第5師団第28連隊とは?

米海兵隊第5師団は1943年(昭和18年)に設立され、カリフォルニアで戦闘訓練を受けている。 1944年にサイパン戦に投入され、日本軍拠点を陥落させた。 この年の秋から、サイパン米軍基地からB-29による日本本土の空襲が可能となった。 その後、1945年1月に第3師団・第4師団と共に硫黄島の激戦地で戦っている。 クリント・イーストウッド監督の映画「父親たちの星条旗」に出て来る「硫黄島摺鉢山山頂の星条旗写真」は、第5師団第28連隊の海兵隊員が撮った写真である。

摺鉢山の星条旗 (ウィキペディアより)

その後、沖縄へと転戦するが、6月に沖縄での組織的戦闘が終了するとグアム基地で日本本土上陸作戦の命令を待った。 8月、広島長崎の原爆投下により、グアムで終戦を迎えた海兵隊第5師団第28連隊は、9月28日にグアム基地から佐世保港に上陸した。 そして、30日早朝の佐世保発臨時列車に乗り、午前11時25分、香椎操車場の貨物ホームに福岡占領軍の第1陣として300名が降り立ったのである。

 

 海兵隊員が降りた香椎操車場駅とはどの場所なのか?

当時の資料を調べてみると、『香椎駅に降りた』とするものもあったが、これは間違いだと思う。 操車場の運営管理は国鉄香椎駅が担っていたが、「香椎操車場駅」と言う正式名称は無い。 操車場のあちこちに貨物の積み下ろし用のホームがあったので、引き込み線を含む広範囲の操車場全体を「香椎操車場駅」と呼んでいたのではないか・・・。

それでは、第5師団第28連隊の海兵隊員は、その広い香椎操車場駅のどの貨物ホームに降り立ったのか? 

 

 9月30日午前11時25分着の米海兵隊第5師団第28連隊ギャラン少佐率いる占領軍第1陣300名の場合は・・・

 

当時の新聞記事によると『第1陣300名は雨の中、香椎操車場引き込み線の貨物ホームに降りて、隊列を組んで宿舎に向かった』とある・・・。 

 雨の中を行進しているので、第1陣が到着した時の写真だと判る。 (福岡市博物館所蔵)                                 

 

↓ 青線内は陸軍松原倉庫。 紫線内は陸軍土井倉庫。 新聞記事にある「隊列を組んで宿舎に向かった」の「宿舎」とは、青線内松原倉庫群の中にあった幾つかの日本陸軍の兵舎のことです。 よって、雨の中に降りた貨物ホームとは の「矯正研修所」前にあった貨物ホームの可能性が高い。 また、引き込み線が先まで伸びていたのであれば、現在の若宮田交差点あたりの貨物ホームだったかもしれない。

↓ 若宮5丁目にある「矯正研修所  」の柵の土台 は貨物ホーム跡だと言われている。 彼らはこのホームに降りたのだろうか?

 

 福岡地区 海兵進駐部隊 司令部

昭和20年(1945年)9月30日、この日の午後にも佐世保から米海兵隊第5師団第28連隊の占領軍第2陣500名が福岡に到着しているが、ロビンソン代将が指揮する福岡地区海兵進駐部隊司令部を立ち上げる隊員300名は博多駅で降りた。 6月19日の空爆を免れた市内のビルやホテルが接収され隊員の宿舎に充てられた。 司令部は東公園にあった料亭「一方亭(現在の福岡市民体育館の場所)」に置かれ、この司令部は「Camp Fukuoka=キャンプ・フクオカ」と呼ばれた。

 

まさしく福岡は占領され、統治は司令部の支配下に置かれた。 ロビンソン代将は、翌10月1日午後2時から山田俊介福岡県知事及び陸海軍代表と第一回の会談を設け、今後の統治について指示事項を伝えた。 この時、天神町の千代田ビル(アクロス隣、現在のフコフ生命ビル)や岩田屋百貨店(現在のパルコ)も司令部の事務所として接収されることが決まった。

 

キャンプ・フクオカ(旧:一方亭)に星条旗を掲げる海兵第5師団の隊員

 

 九州飛行機 香椎工場 

米国のスミソニアン博物館(ワシントンDCにある航空機関連の収集物も展示している総合科学博物館)の倉庫に、解体されたままの日本の新型高速戦闘機(試作機)が保存されている。 実戦で飛ぶ前に終戦を迎えたその戦闘機は、九州飛行機 香椎工場で開発製造された。  その戦闘機については次の「香椎操車場と占領軍 ④ 米海兵隊による接収」で再度触れます。

 

 九州飛行機 香椎工場(旧 渡辺鉄工所)が位置していた場所は、 の千早6丁目辺り。 香椎税務署辺りから第1次埋め立て工事終了時の防波堤まで広がっていたようだ。

(地図はマピオン利用 終戦時の海岸線に修正しています)

↑ ➉は「九州飛行機 香椎工場」敷地推定エリア。 第28連隊の海兵隊幹部の宿舎となった「明石邸」。 地域は大きな貨物ホーム推定地。 緑点線は旧唐津街道(504号線)。

 

戦時中、「九州飛行機 香椎工場」は海軍の「対潜哨戒機 東海110」を制作していた重要施設だった。

対潜哨戒機 東海110

 

実は、終戦時の「九州飛行機 香椎工場」はB-29の空爆を避けるために、筑紫郡へ施設の一部を移転していたのだ。 第28連隊の海兵隊は、そのことを知っていたのかどうかは分からない。 しかし、航空機製造工場として接収を急いだことは間違いない。 また、新型高速戦闘機の開発については情報を得ていたのかは分からない。 

 

 午後3時着の第5師団第28連隊の第2陣200名の場合は・・・

 

9月30日午後、米海兵隊第5師団第28連隊の占領軍第2陣500名の中で司令部関連の隊員300名は博多駅で下車し、残り200名が午後3時過ぎに香椎操車場地区に到着した。 この第2陣が向かったのは「九州飛行機 香椎工場」だった。 「九州飛行機 」には多くの技術者や工員が働いていたこと、また航空技術者を養成する青年学校もあったので、宿舎の設備が整っていたのだ。  

 

 これは想像だが、第2陣が下車した場所は、現在の西鉄香椎宮前駅の南西側近くで旧唐津街道(504号線)沿いにあった大きな貨物ホーム(印)だったのではないかと思う。 この場所は幹線道路(504号線)の横だったので、トラックによる搬出・搬入に便利だったのだ。 ここは操車場の中でも一番大きな貨物ホームで、下はその時の写真ではないだろうか。 午前の雨が上がっていること、午後の陽射しによる隊員の影が写っていること、何よりも「九州飛行機 香椎工場 」に近い。 第2陣なので、第1陣の米兵の規律ある行動を見て安心した街道沿いの住民が見物に来ている。 旧唐津街道(504号線)から参道を行進して「九州飛行機 香椎工場」へ向かったのだろうか。

 

昭和20年(1945年)9月30日、ギャラン少佐が指揮する米海兵隊第5師団第28連隊の第1陣と2陣の計500名が香椎操車場に降りた。 終戦から45日目、彼らは福岡へ来た最初の占領軍(進駐軍)であった。 香椎の住民は初めて見るアメリカ兵に対し、略奪など不安な気持ちも抱いていたが、海兵隊の規律正しい行動にひと安心したと言う。

 

この日に到着した海兵隊員らの宿舎は、日本陸軍の倉庫兵舎と「九州飛行機 」の工場内に確保されていた。 ギャラン少佐と数名の幹部のためには、香椎宮参道にあった洋館・明石邸 が接収され宿舎及び拠点とされた。

明石邸

 明石邸については ➡ 「明石元二郎 ⑧ スパイ活動と明石邸」を覗いて下さい。

 

参考文献:「進駐軍が写したフクオカの戦後」 西図協出版発行

 

 

香椎操車場と占領軍 ④ 米海兵隊による接収」に続く。

 

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