晋州城の戦いで太兵衛が活躍する

母里太兵衛と黒田家 ① 黒田24騎と黒田8虎

母里太兵衛と黒田家 ② 播磨国姫路の時代

母里太兵衛と黒田家 ③ 秀吉の時代」の続きです。

 

秀吉大阪城で親しい家臣たちと酒を飲みながら談笑している。 そして、ふざけ半分でふっと尋ねた。 「ワシが死んだら、次は誰が天下を治めると思うか?」

「前田様(前田利家)」と答える者と「徳川様(徳川家康)」と答える者に分れた。 

秀吉は静かに口を開いた。 「違う、それは官兵衛だ。 ヤツがその気になれば、今にでも天下をとるだろう」

豊臣秀吉 (唐津城博物館)

 

この話は豊前中津の黒田官兵衛の耳にも伝わって来た。 官兵衛は即座に息子の長政と三人の家老(栗山善助母里太兵衛井上之房)を広間に呼んで言った。

「ワシは今日をもって隠居し、当主を長政に譲る。 善助、太兵衛、之房の三家老は、これからは長政を支え黒田家を守ってくれ」

官兵衛は剃髪し、如水(じょすい)と号して隠居した。

黒田官兵衛如水 (崇福寺)

 

下剋上と呼ばれる戦国時代は、優秀な部下が上司を乗り越えていく。 この頃の秀吉は、歳をとったせいか物事を疑心暗鬼に捉えることが多くなっていた。 真に官兵衛の謀反などを警戒していたのだろうか。 官兵衛は秀吉が自分を警戒しているのではないかと疑い、隠居することで先手を打って従順を示したのだ。 しかし、秀吉は官兵衛が要職から離れることを許可しなかった。 如水と名乗ってからも、秀吉は官兵衛を頼って色々命じていた。 しかし、官兵衛の本当の凄さを知っていた秀吉は、心の底では官兵衛を恐れていたのかもしれない。

 

 文禄の役

文禄元年(1592年)の春、唐津の名護屋城から秀吉の朝鮮侵攻が始まった。 黒田長政24歳、母里太兵衛36歳の時であった。 一番隊から八番隊まで総勢16万が対馬海峡を渡った。 一番隊の小西行長は釜山上陸後、わずか20日で李氏朝鮮の都・漢城(ソウル)まで攻め込んだ。 二番隊の加藤清正は半島東部からロシア国境近くまで北上した。 三番隊の黒田長政と一番隊の小西行長は四番隊以降の部隊と連携を取りながら、平壌(ピョンヤン)を攻略した。 母里太兵衛は長政を支え連日奮闘した。

文禄の役

 

しかし、明国の援軍4万が朝鮮軍と合流すると、徐々に形勢が悪くなって来た。 形勢悪化の理由はもう一つあった。  慶尚南道に頑強な晋州城(チンジュソン=印)があって、ここに駐留している朝鮮軍が、日本軍の補給部隊を度々襲ったのである。 補給路を遮断された日本軍は食料で苦しんだ。 劣勢が認められるようになった日本軍の小西行長は、明国・朝鮮国と講和交渉に入り、釜山まで撤退して休戦とする案を提出した。 秀吉はしぶしぶ了承したが、一つだけ我慢ならないことがあった。 晋州城の一件だ。 後々の為に、休戦の前に晋州城を完全に落とすことを命じた。

 

 晋州城攻略

漢城(ソウル)から釜山へ撤退する途中で、4万人規模の晋州城(チンジュソン)攻撃隊が編成された。 黒田長政加藤清正は、話し合って攻撃隊に名乗りを挙げた。 二人は共同して晋州城への一番乗りを果たそう、と意気込んだ。 晋州城には、朝鮮軍兵の他に蜂起した義兵(自警団)ら計2万人が立て籠もっている。 

晋州城(復元)

 

日本軍は他の攻撃隊もそれぞれ担当する方角から攻めたが、石垣に近づくと弓矢や投石、熱湯などで反撃され、頑丈な石垣を越えることが出来なかった。 長政と清正は話し合って、其々から大将クラスの武将を選出し、特別攻撃隊を編成することにした。 選出された武将は、黒田陣営から母里太兵衛後藤又兵衛、加藤陣営からは飯田覚兵衛(いいだかくべえ)と森本義太夫の4人だった。 飯田覚兵衛母里太兵衛と同様に、加藤家における城造りの名人でもあった。 「関ヶ原の戦い」後の熊本城の普請を担当している。

 

4人は早速、現状打破の策を練り、石垣の上からの攻撃を防ぐ装甲車(後に亀甲車と呼ばれた)を考案した。 頑丈な板で箱型の車を造り、屋根は固い板を重ね、その上に牛皮を何枚も張り重ねると強度が増す。 それらに鉄鋲を打って、更に頑丈にする。

亀甲車  (歴史マガジンより)

 

亀甲車の中に兵士が乗り込み、石垣に近づく。 上からの弓矢・投石・熱湯を防ぎながら、亀甲車の中から兵士が、大きな鉄棒槍で石垣を壊していくのだ。 この作業を昼夜繰り返し、とうとう北側の城壁に穴を開けた。 その瞬間、太兵衛ら4人の武将が競って城の中に突入した。 黒田・加藤連合特別攻撃隊が晋州城一番乗りを果たした。 この時の共同作戦以来、黒田長政加藤清正及び家臣同志での親交が深くなった。 慶長16年(1611年)、加藤清正が病死し熊本藩が改易になった時、長政は飯田覚兵衛(いいだかくべえ)を福岡に呼び寄せ大名町に屋敷を与えている。 福岡藩飯田家は幕末まで続いた。

 

 香椎うっちゃんのブログ  「飯田覚兵衛と大名町の大銀杏

 

 黒田藩が築いた機張倭城(キジャンウェソン)

日本軍は平壌(ピョンヤン)・漢城(ソウル)から釜山へ撤退した。 休戦中の朝鮮半島南部の支配・補給基地の確保のため、主だった大名は慶尚南道の海岸沿いに30以上の日本式倭城(わじょう=ウェソン)を築いた。

倭城(ウェソン)位置

 

加藤清正の倭城は西生浦(ソセンポ)に・・・黒田長政の拠点倭城は釜山から北の機張(キジャン)に築かれた。 この時に普請を命じられたのが、城造りの名人・母里太兵衛野口佐助の義兄弟だった。 

野口佐助

 

朝鮮半島は石材が豊富で、二人は突貫作業で石垣を組み、機張倭城を築いた。 

黒田長政が築いた機張倭城址 (城めぐりチャンネルより)

 

文禄2年(1593年)、一時休戦の講和が成立し、各大名は慶尚南道の倭城に留守部隊を駐留させて休戦帰国した。

 

 

母里太兵衛と黒田家  ⑤  黒田節の成立に続く

 

 

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