飛行予科練習生(予科練)の松根油製造

アクロス1階の円形ホールで開かれている「福岡県戦時資料展(8/14~17)」に行って来た。

 

入り口の「あいさつ文」に書いてあった。

『終戦から78回目の夏を迎え、戦争を知らない世代が増えて来た。 貴重な展示資料を通して、戦争の実相と戦時下の生活を知っていただき、改めて、平和の尊さに思いを致し、平和の大切さについて考えてほしい』と。

 

福岡県戦時資料展」には毎回訪れてはいるが、今回は、円形ホール前の廻廊に並んでいた熊本県の「人吉海軍航空基地」の展示パネルについて報告したい。

 

正直に言うと、熊本県人吉に「旧海軍航空基地」があったとは知らなかった。 しかし、何で海岸から30kmも離れた標高1,000mのそんな山奥に・・・?  

 

 「人吉海軍航空基地」については、平成30年(2018年)に現地資料館「ひみつ基地ミュージアム」がオープンしていて、そのことが今回紹介されていた。

ひみつ基地ミュージアム

 

飛行場を建設する条件とは・・・「平坦な土地であって、飛行機の発着に必要な広さがある」、「離着陸方向に障害物がなく、自然風が吹いている」、「物資輸送が便利であり、基地設営が容易な地形である」とあるが・・・人吉盆地は広大で、肥薩線によって物資輸送にも便利だったのだろう。 加えて、「人吉盆地は霧が多いので、空爆から逃れ易い」、「東シナ海からの敵艦砲射撃が届かない」などが考えられるのかな、と個人的に思った。

 

人吉海軍航空基地 滑走路跡

 

しかしながら、この海軍航空基地は昭和18年(1943年)11月に建設が開始されている。 太平洋戦争の最中で、しかも、ガダルカナル戦から撤退後で戦局は悪化していて、戦闘機搭乗員も減少していた。 この基地は次の戦局を睨んで建設されたようだ。 その秘密を「ひみつ基地ミュージアム」が明らかにしている。 

 

 人吉海軍航空隊

基地建設から3ヶ月後の昭和19年2月、人吉海軍航空隊が発足し、新しい海軍飛行予科練習生(予科練)が入隊して来て、戦闘機搭乗員・飛行機整備員を養成した。 終戦までに、その数6,000人を超えると言う。

人吉海軍航空隊 卒業生見送り式 (昭和20年)

 

旧海軍戦闘パイロットを育てた練習機は、目立つ様に橙色に塗られていたことから、愛称「赤とんぼ」と呼ばれた。 その中で一番代表的な機種は「九三式中間練習機(きゅうさんしきちゅうかんれんしゅうき)」だった。

九三式中間練習機(赤とんぼ)

九三式中間練習機」は昭和9年(1934年)の採用から終戦による退役まで、約5,770機が生産された。 昭和20年8月の終戦時、人吉海軍航空基地には96機が残っていたが、GHQの命令により焼却処分された。 現在、復元された「九三式中間練習機(赤とんぼ)」1機が展示されている。

終戦の年の昭和20年1月3日に、滑走路上で行われた観兵式

 

B-29爆撃機による本土空襲が多くなると、人吉海軍航空基地は様相が変わった。 爆撃に耐え、本土決戦を見据えて、地下に司令部・倉庫・兵舎・格納庫・弾薬魚雷庫・地下トンネル・兵器工場・機械工場など大掛かりな地下軍事施設の建設が進んだ。

地下魚雷調整場跡

 

それらの多くは戦後に消滅しているが、現在でも多くの地下施設が残っていて、当時を物語っている。 

 

 松根油(しょうこんゆ)製造工場

昭和20年(1945年)1月12日、インドネシア産の石油を輸送していた日本の大タンカー船団がベトナム沖で米軍の攻撃を受け全滅した。 以後、日本軍の戦闘機は燃料不足に悩む。 これにより、かねてより全国各地で研究が進められていた「松根油」を戦闘機燃料の代替え燃料として用いることが軍部内で決定された。

 

発掘した松の伐根を小さく割って、乾溜缶に入れ、300度で加熱すると、揮発成分が得られる。 それを冷却液化すれば「松根油」になる。 「たいまつ(松明)」と言うくらいだから、樹脂は多いのだろう。

 

人吉海軍航空基地には、若い予科練習生が大勢いたので、他よりも一早く「松根油製造工場」を起ち上げた。 パネル内に当時の貴重な写真があったので紹介する。

 

 老松の根っ子を掘りおこす

 

 伐根した松の根っ子を細かく砕く。

 

 軍から支給された百貫釜(乾溜缶)に砕いた松根を入れて、夜通しで炊く。 生じた蒸気(揮発成分)を冷却すると「松根油」が得られる。

 

 松根油製造工場(ひみつ基地ミュージアム)

 

この頃の軍内部で、既に「バイオマス資源」の研究が進んでいたことが分る。 「松根油」の実用化手前で終戦を迎えているので、この燃料がどれ程、戦闘機に利用されたかは解らない。 ただ、この様な記録数値が残っている・・・「老松200本の根っ子で、戦闘機が1時間飛行出来る」・・・と言うことは、何人もの若者が苦労して掘り起した松の根1本で、たった18秒しか飛べない。 終戦間際の日本が軍部も民間も大変な苦労をしていたことが解る。 しかし、終戦があと1年遅れていたら、日本の国土から松林(生の松原や虹の松原など)が消えていたかもしれない。滝汗

 

昭和19年(1944年)秋、レイテ沖海戦に負けた後、人吉航空基地は搭乗員養成施設から特攻訓練施設へ・・・そして、最終的には山奥の本土決戦用巨大地下防衛基地へと変換して行ったことが解る。 

 

人吉海軍基地跡の「ひみつ基地ミュージアム」には、是非、訪問してみたいと思う。

 

 

最後に、アクロス円形ホールでの「福岡県戦時資料展」からは、1枚の写真を紹介します。

 陶器製の「湯たんぽ」と「水筒」です。 戦争の長期化から兵器に使われる金属が不足して来た。 軍の命令により、家庭内の金属類も公園内の銅像も供出させられていたのです。 渋谷の「ハチ公」も現在は2代目で、戦時中は居なくなってました。

 

戦後生まれの団塊世代である僕は、幼い頃の陶器製の「湯たんぽ」を覚えている。 寒い冬に、母がこの「湯たんぽ」に熱い湯を注ぎ、布で巻いて布団の中に入れてくれた。 昨年、99歳で大大往生した母は初盆で帰って来ていたが、昨夜天へ戻っていった。 戦後の大変な時期に、僕たち3人の子供を苦労しながら育ててくれたことを忘れはしません。

 

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