ボックスカー と ファットマンって何?

終戦から75年の日を想う

 

8月9日は「長崎原爆の日」です。

昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市に米軍B-29爆撃機から原子爆弾が投下された。 「ボックスカー BOCKSCAR」とは、その時のB-29機のコードネーム(愛称)、「ファットマン FATMAN」とは、投下した原子爆弾のコードネーム。

 ボックスカー BOCKSCAR」とは、機長のFrederik Bockの名からBockの車を表すBOCK'S CARと個室型の貨車BOXCARをかけた洒落。 貨車はコンテナに変わって、ほとんど見ることはなくなった。 米軍は機体に愛称絵画を描く。

        貨車(Boxcar)            B-29 BOCKSCAR

        

                       (オハイオ州デイトン 空軍博物館 現物) 

 

 機体の愛称絵画。地球の上に線路が敷かれ、原爆投下訓練の基地・ユタ州のソルトレイクシティから長崎まで、貨車(Boxcar=B-29)で原子爆弾を運んだ意味だろう。 長崎の赤の「鳥居」は何?・・・広島の厳島神社と勘違いしているのか?

         

 ファットマン Fat Man」は、そのまま「太った男」。長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾の外形・見掛けから付けられたコードネーム(愛称)

               (長崎原爆資料館  大きさが分る)

 

アメリカ人特有の愛嬌と洒落から付けた名前だろうが・・・「ファットマン」一発で、7万人以上の住民が一瞬にして亡くなった。  なんか、簡単に・・・洒落じゃ済まされん。

 

その日の早朝、アメリカ軍テニアン(サイパンの南方)基地からB-29「BOCKSCAR ボックスカー」が飛び立った。 ボックスカーは硫黄島上空を経て、9時40分大分姫島方面から小倉に入った。 そう、この日の原爆投下作戦は、第一目標が小倉、第二目標が長崎であった。 前日の8月8日、同じくテニアンやサイパンを出発したB-29の爆撃隊が新種の爆弾・焼夷弾(ナパーム弾)を投下して八幡の町を焼き払っている。 今回は八幡の製鉄所のみではなく、小倉を中心にした兵器工場が目標となった。 しかし、ボックスカーが小倉上空へ到着した頃は、霞?がかかっていて目視による目標確認に失敗。 40分を費やして3回試みるがいずれも失敗し、10時30分、小倉上空から第二目標の長崎へ移動した。

 

霞?とは、前日の八幡空襲での火災の煙りが立ち込めていた、或いは爆撃を警戒した八幡製鉄所の職員がコールタールを燃やして煙幕を張っていた、などの説がある他・・・B-29の搭乗員が「体当たり」を恐れていた日本陸軍の屠龍 (戦闘機)2機が、突然、現れたので上空離脱したなどの新説もある。    「B-29爆撃機 VS 屠龍戦闘機」 うっちゃんのブログ

 

のブログでも話したことが、 結婚前の母は戸畑に住んでいたのです。前年の6月16日のB-29の北九州空襲で家が爆撃され、北九州を離れていたことが、うっちゃんの運命を変えている。 母の家族が爆撃に遭わずに、そのまま戸畑に残っていて、ボックスカーが原爆を落としていたら、うっちゃんはこの世に存在していない。

 

10時55分、ボックスカー長崎上空近くに接近。ここも雲に覆われていたが、一瞬雲の切れ間から、長崎市内が眼下にひろがった。 11時2分、原爆が炸裂した。

 

アメリカ政府の話では、「日本軍あるいは民間人の狂信的な抵抗を考えると、日米双方に今まで以上の死傷者が予想される。原爆で戦争を終結させた」と原爆投下の意義を主張していた。 確かに、当時は一部の民間人でさえ「一億総玉砕」を叫んでいたそうだから・・・「狂信的な抵抗」は、間違いとは言えない。 でも、やっぱり、原爆投下を正当化する言葉に聞こえる・・・。

 

ボックスカーには13名の搭乗員が乗っていたが、既に全員が亡くなっている。 彼らも命令に従っただけで・・・終戦後、長く悩んで苦しんでいたそうだ。 普通の人間だったら、そうだと思う。 彼らも戦争の犠牲者に違いない。

 

うっちゃん達の団塊世代以降、つまり、戦争を知らない戦後生まれが、国民の大部分になりつつある。昭和20年8月15日の終戦から75年の節目を迎える。 と言うことは、75年間は戦争のない平和な国だったことになる。 戦争放棄を記した「憲法9条」は、世界が認め称賛する平和憲章と言える。 しかし、この数年、各国の意地の張り合いが緊張を大きくしている。 軍隊を持てば、必ず戦争に導く・・・これは、日清・日露・太平洋戦争で充分に学んだことではないか・・・なんて、カッコつけて話しているけど、うっちゃんも祖国を愛する日本人だ!・・・近年の領土問題などを聞くと頭に血が登る。 しかるに、国家の舵取りは難しいと思うが・・・戦争は起こしたら終わりだ。

 

お盆の時期になると、各地の戦争祈念館で「戦争を考える勉強会」が開かれている。 悲惨な戦争を学ぶことによって、平和の大切さが分る。 

 長崎原爆資料館で次の写真を見た人は多いと思う。 原爆投下から2ヶ月後に現地に入った米国の写真家ジョー・オダネル氏が撮った『焼き場に立つ少年』。

背中におぶっている幼い弟は、眠っているのではなく、既に死亡している。 市内に設けられた火葬場で、順番を待っているはだしの少年。 火葬場の男二人が、少年の背中から死んでいる弟を外し、そっと火の中に置いた。 少年は黙って立ち続けていた。 状況はこれだけしか説明されていないが・・・少年の姿を見ていると、戦争の無情さに胸が痛くなる。 感情を押し殺した表情が、何とも切ない。 背負った弟の帯の締め方は、一人では結べない・・・歩くことが出来ない母親がいたのだろうと、うっちゃんは想像した。 少年は怪我をした母親と三人で近くの小屋に避難して、動けない母親の介抱をしながら、食べ物を探して毎日歩き続けた。徐々に体力を失くしていく弟に何もしてあげられない。 そして、2ヶ月後のある日、眠るように死んだ。 母親は泣きながら、死んだ弟を帯で少年に背負わせ、焼き場に行くように伝えた。 ここまで書いて、ジブリの「火垂るの墓」を思い出し・・・涙が止まらなくなった。 

 

どんな理由があったとしても悲惨な戦争を繰り返してはいけないと強く感じる

人類史上、戦争で2発使用された核兵器が2発とも日本だとは・・・2発とも回避は出来た筈だ。 昭和20年の1月には、天皇陛下が終戦を問われていたらしい・・・。 人類は3発目を、絶対に使用してはいけません。

                  長崎平和祈念像

 

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