「野辺 只今より 体当たり」   終戦から75年の日に想う

昭和19年6月16日、中国の成都を飛び立ったアメリカ軍B-29爆撃機が、初めて日本本土の北九州を襲った。 官営八幡製鉄所が爆撃目標だった

                                                      

 

                

官営八幡製鉄所は、日本にとって最重要施設の一つであった。 B-29による空襲から、何としてでも、護らなければならない。 下関の小月基地と遠賀の芦屋基地には、陸軍の航空隊が待機していた。 

             

      (画像は「日本の歴史と日本人のルーツ」 山本和幸さんのブログよりお借りしました)

基地と戦闘機には無線が設置され、口頭で指示・誘導が出来た。 また、八幡製鉄所の周囲、及び小倉・折尾。若松の要所に高射砲隊が置かれ、夜間の目視攻撃を助ける探照灯(サーチライト)が製鉄所を囲むように各所に設けられた。 

 

B-29による初めての本土爆撃から約2ヶ月後の8月20日朝、成都のB-29爆撃機75機が、再び北九州の八幡製鉄所を爆撃すべく発進した。

 

迎え撃つ航空隊の主力は小月基地の樫出 (かしいで いさむ)中尉(その後・大尉)を飛行隊長とする飛行第4戦隊であった。

樫出 は、B-29の最多撃墜記録(26機)を有して終戦を迎えている。 陸軍のエリート戦闘機乗りと讃えられ、1994年に没している。 小月基地に配置される迎撃戦闘機としては、川崎飛行機(川崎重工業)で開発製造された陸軍二式複座戦闘機屠龍(とりゅう)」が選ばれた。 

    

大型爆撃機(B-29)への攻撃用として、通常の7.7mm機銃、20mm機関砲の他に、対戦車用に使用されていた37mm機関砲の改造型が、特別に機体前面中央に装備された。 37mm機関砲は、発砲の際の衝撃が強いので、双発機(屠龍)の中央の構造を強くして装備したのだった。 

 

成都を、朝、飛び立ったB-29の編隊は、中国の日本陸軍及び済州島・対馬のレーダーによって察知され、8月20日午後には下関の小月基地に刻々と伝えられていた。 樫出隊長は、飛行第4戦隊の屠龍搭乗員を集めて作戦を指導した。 

             小月基地 飛行第4戦隊(屠龍戦隊)

        

       ( 画像はブログ「小月基地の成り立ち」よりお借りしました)

屠龍戦隊」がB-29爆撃機と初めて戦ったのが、2ヶ月前の6月16日だった。 樫出隊長は、その時の空中戦でB-29を撃墜しており、敵機の構造・機能・癖をつぶさに研究していた。 37mm機関砲は上手く使用すれば、一発でB-29を撃墜することが可能であること・・・斜め上に突き出した20mm機関砲を使って、敵機の下側から攻撃すると効果があること・・・B-29は聞いていた情報よりも飛行速度が速いので、早めに回り込むこと・・・等などを細かく伝えた。 

 

樫出隊長は発進の合図があるまで、隊員を待機させた。 隊員たちは、雑談しながら、それぞれの頭の中で、B-29を撃墜するイメージを描いている。 樫出隊長はそんな隊員たちを眺めながら、若い搭乗員二人に声をかけた。 野辺 軍曹23歳)と高木 兵長19歳)で、二人は組んで同じ「屠龍」に搭乗する。 

              

二人の若い搭乗員は、戦いの前の緊張からか、身体が強張っていた。 だからこそ、軽く声をかけて、気分を和らげたのだった。 野辺高木は確かに緊張はしていたが、戦闘が怖いのではなかった。 他の隊員と同じように、B-29を打ち落とし、八幡製鉄所と市民を守るんだ、と言う気持ちは強かった。 この時、勇名を馳せた樫出隊長から、直々に声をかけてもらったことで、二人は互いに「ヨシッ」と決意を新たにした。

 

午後5時、小月基地の迎撃戦闘機「屠龍」の他、芦屋基地の「飛燕」、「疾風」の合計82機が発進した。 

 

小月基地の「屠龍戦闘隊」は高度を上げ、北九州上空で迎撃隊形を組んだ。 その時、西に傾いた太陽の輝きの中から、B29の機影が次々と現れた。敵機は5~6機毎の梯団となって飛んで来た。 第1梯団は、既に折尾上空から八幡に近づいていて、芦屋基地の「飛燕」数機が機銃を浴びせていた。 まずは第1梯団を撃墜しなければならない。 樫出隊長機は屠龍隊数機を引き連れて、1梯団のB-29に襲いかかった。 

                  

             (垂直尾翼のマークは小月基地を示す)

野辺機には、仲間機と第2梯団を攻撃するよう無線で指示がきた。 野辺機たちは、横から廻って第2梯団の前面から迎え、攻撃を開始した。 野辺と高木は第2梯団先頭の梯団長機の前方ななめ上空に位置した。 樫出隊長から教わったように、B29に向かって急降下しながら37mm機関砲で狙いを定め発砲した。 弾は主翼の後ろに逸れた。 野辺は「しまった」と叫んだ。 野辺の「屠龍」に装備された37mm機関砲は、それこそ対戦車用を改造した初期のもので、一発ごとに弾を再装填しなくてはならない。 樫出隊長ら熟練者の「屠龍」には、改造が加えられた15発の弾倉が装着されている。野辺機は第2梯団長機の下方から、高木が20mm機関砲を撃ち続けた。 梯団長機の胴体に命中はして傷を負わせているが、そのまま飛び続けている。 梯団長機後方機銃席からの射撃によって野辺機の右側エンジンに弾が当たり、煙が噴き出した。 野辺がハッと前方を見ると、梯団長機の先に製鉄所が見えてきた。

       

      (画像はブログ「祖国日本 本土防空」よりお借りしました)          

          

 「このままだと、製鉄所が爆撃される、もはやこれまで」 野辺はとっさに機体を横に反らせると、B-29梯団長機の右側から前方斜め上まで一気に上昇した。 野辺は「高木!」と叫んだ。 高木はこの時、野辺の覚悟を察した。 野辺は無線に「野辺 只今より 体当たり」と発すると、機体を大きく反転させ、梯団長機目がけ、まっしぐらに体当たりを敢行した。野辺・高木機と梯団長機は大爆発を起こし、火塊が飛び散った。 爆破片となった梯団長機のエンジンの一部が後続の二番機の翼に当たった。 二番機は一瞬グラリと横に傾くと、煙を出しながら徐々に高度を下げ、永大丸小学校の運動場近くの公園に激突、炎上した。

 

(画像は八幡高校同窓会関東誠鏡会のブログよりお借りしました。下から、響灘・若松・洞海湾・八幡製鉄所)

              

この日、八幡製鉄所はそれなりの損害を被ったが、2日後に復旧している。 樫出隊長率いる「屠龍隊」始め、陸軍迎撃隊の戦果は大きく、この日の米軍B-29の損失率は、第二次大戦中最悪の数値となっている。 「屠龍(とりゅう)」とは、B-29を大きなに例え、「(ほふ)る戦闘機」を意味する。 野辺と高木は一機の「屠龍」で二機の「B-29」を撃墜した。

 

日本軍における、太平洋戦争での初めての「体当たり」だった。 しかし、戦局は悪く、2ヶ月後の10月、フィリッピンのレイテ沖海戦で「神風特攻隊」の出現へとつながった。

 

八幡西区大膳公民館近くに、野辺高木二人を讃える「体当たり特攻勇士の碑」が建っている。 碑文の言葉は、元飛行第四戦隊飛行隊長 樫出 勇 だった。

 

 野辺重夫  埼玉県出身 少年飛行兵第六期生(操縦) この年23歳

 高木傳蔵  鹿児島県出身 少年飛行兵第十三期生(通信) この年19歳

 

うっちゃん達の戦後とは時代も、また、受けた教育も違うだろうが、日本国を守るために、なんと崇高なる精神か! 安らかにお眠り下さい。   合掌 

 

 参考文献:「成都からの北九州爆撃」 元北九州市助役 上田一壽  他

 香椎うっちゃんのブログ 香椎浪漫 他の関連ブログ

  ●「B-29による北九州空襲と僕の運命

  ●「長崎原爆の日 0809

  ●「嗚呼壮烈軍艦香椎 香椎が護衛した輸送船団

  ●「人吉海軍航空基地と松根油

  ●「6月19日は福岡市大空襲の日

 

ある日の想い・日記

香椎浪漫

                   コロナ退散!