戸畑のじいちゃんとばあちゃん      

終戦から75年の日に想う

うっちゃんは終戦後の団塊の世代。 生まれてから小学校1年生大名小学校までは、福岡市中央区の長浜に住んでいた。物心ついた頃は、生活が貧しくて・・・でも、それが戦争によるものだとは当然のことながら解からない。 敗戦国の日本・・・福岡市の町の中を多くのアメリカの兵隊さんが歩いていた。 父から、アメリカの兵隊さんに会ったら、「ギブ・ミー・チョコレート」と言うように教わっていた。 父は終戦直後の貧しい中、お菓子も買ってあげられなかったのだろうか。 意味と情況が解からないまま、うっちゃんが覚えた最初の英語。
 
それより時を戻した終戦の前年(昭和19年・1944年)、うっちゃんのじいちゃん(母方)は現在の北九州市戸畑区牧山で「山本製炭所」という”燃料工場”を経営していた。 母は男三人、女三人の六人兄妹で、母は長女で21歳。上に長男がいるが徴兵により出兵していた。
山本製炭所」は一般家庭用の練炭や豆炭などを製造販売し、また「官営八幡製鉄所」の下請け工場へ”コークスや石炭”などの燃料を納品していたようだ。
                ●戦前の「山本製炭所」
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                            印がうっちゃんのじいちゃんです。
工場の前の道路を西鉄戸畑線の軌道電車が走っていた。 写真の左方向が八幡、右方向が小倉。工場と天籟寺川の間に住居があったと聞いていた。
時が経って、工場の跡地に、現在は牧山中央病院が建っている。
 
昭和19年、この頃、中国大陸では日本軍占領地から遠く離れた「成都」で、アメリカ軍による滑走路の建設が進んでいた。 アメリカ軍のB-29爆撃機は、爆弾を最大九トンまで搭載可能な大型爆撃機だ。アメリカ軍では日本本土を爆撃するために、当初、ロシア領内のシベリアに滑走路を設けることが検討されたが、ロシアに拒否されたため「成都」が選ばれた。
B-29は搭載爆弾を九トンから五トンにすれば、航続距離は6,000kmになる。 成都から北九州までは片道2,500km・・・京浜工業地帯は無理だが、北九州工業地帯とりわけ日本にとって最も重要な”官営八幡製鉄所”への爆撃が可能となったのだ。
                              B-29爆撃機
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昭和19616日、夜中の午前024分、北九州に空襲警報のサイレンが鳴り響いた。
成都を発進したB-29爆撃機47機による初の日本本土戦略爆撃だった。 3分後の午前0時27分、下関小月飛行場から陸軍の戦闘機「屠龍(とりゅう)」24機が飛び立った。
                屠龍 
B-293,000mの高度で、編隊を組まず一機ずつ二、三分間隔で北九州に侵入し爆弾を投下して行った。 暗闇の空を探照灯(サーチライト)の光がB-29爆撃機を捉え、対空高射機関砲が火を吐き、日本の「屠龍」が迎え撃った。 地上では民家も工場も”灯火管制”がひかれ、真っ暗だった。 加えて「屠龍」の必死の迎撃に惑わされ、B-29は正確な爆撃が出来なかった。それでも、八幡製鉄所の一部と、周辺市街地に被害がでた。 その周辺市街地の一つが、じいちゃんが経営していた戸畑の「山本製炭所」だった。
 
7年前、二日市に住んでいた叔父(母の弟・山本家次男)が亡くなった。 うっちゃんは叔父の部屋の整理を頼まれた時に、叔父が作成した冊子を発見した。 その冊子はパソコンを使って、しっかり編集されていて、その中には、昭和19616日、戸畑牧山の自宅で受けた空襲のこと、また、その後の一家の生活が書かれていた。
 
小学校6年生だった私(うっちゃんの叔父のこと)は、夜中に母に起こされた。初めて聞くけたたましい空襲警報のサイレンの音。直ぐに母と姉(うっちゃんの母のこと)・弟・妹は、納屋の下に造られていた壕に飛び込む。父も壕の上に畳を何枚か重ね、飛び込んできた。直後、爆弾が工場に2発命中。頸から下は土に埋もれたが、町内の人々によって家族全員が助けられた。 空には照空灯に浮かぶB-29の大きな機体が見えた。 B-29が投下する爆弾におびえながら、次の壕に移動した。
 
母がこんな戦争体験をしたことを始めて知った。 この時、もしも、山本一家の全員が爆弾で死んでいたら・・・うっちゃんは生まれていない。 現在、存在しないのだ。 それ以降、「運命」というものを、考え続けている。
じいちゃんの出身故郷は筑前町三輪寄井新町。 爆撃で工場と住居を失ったじいちゃんは家族全員で、まずはここに疎開した、と叔父の記録には書かれていた。 じいちゃんは2ヵ月後の8月には、筑紫郡御笠村阿志岐七力(二日市の近く)に農家と水田・畑を買い取り、慣れない農業で一家を養っていくことを決心したらしい。
 
中国・成都からB-29による日本本土(北九州)初の戦略爆撃を受けた616日。 同じ日にサイパンではアメリカ海軍の上陸を許してしまった。 サイパンを含むマリアナ諸島の日本軍基地陥落は日本の制海権・制空権を失う絶対防衛圏の崩壊を意味する。
サイパンから東京までは片道2,400km。マリアナ諸島のアメリカ軍各基地から、B-29による日本のほぼ全土への爆撃が可能となったのだ。
 
2ヶ月後の8月20日、北九州は再び成都を離陸したB-29爆撃機の空襲を受ける。 この時の陸軍の戦闘機「屠龍」の活躍は次回に・・・。 
 
アメリカ軍サイパン基地の滑走路は10月いっぱいまでに拡張工事が終了し、続々とB-29が集結した。 そして1124日、サイパン基地から飛び立ったB-29の大編隊が東京を爆撃したのだった。
 
年が明けて昭和20年(1945年)326日、アメリカ海軍は沖縄に上陸を開始。日米で最大規模の戦闘となった沖縄戦の火蓋が切られた。
 
戦局は悪くなり、7月に入って、筑紫郡御笠村阿志岐に移転していた山本家に一通の書面が届いた。 徴兵により出兵していた長男(母の兄)が525日、沖縄戦(宮古島)にて戦死した報せだった。 母や叔父(次男)の話によると、じいちゃんとばあちゃんは床に泣き崩れたそうだ。

 

その間の四月七日、沖縄へ特攻に向かった”戦艦大和”がアメリカ軍戦闘機のべ三百五十機の猛攻を受け大爆発、三千余人の乗り組員とともに東シナ海の底に沈んだ。
                          嗚呼壮烈 戦艦大和
大本営は本土決戦に備え、途中で沖縄を見捨てた。 軍人を除く沖縄県民だけの死者は十五万人、これは県民の三分の一に当たる。  沖縄戦は多くの犠牲を伴って、623日に島内での戦闘が終わった。
 
その後は、本土近海を航行するアメリカ海軍空母からも戦闘機による本土空襲を受けるようにもなる。
亡くなった二日市の叔父(山本家次男)の冊子の記録によると、筑紫郡御笠村阿志岐の家の近くにあった西鉄筑紫駅に停車中の電車が、グラマン戦闘機の機銃掃射を受け、十数人が死亡したとある。
                                                               グラマン戦闘機
86日午前815分、広島に原爆が投下された。
その二日後の88日、八幡はアメリカ軍マリアナ基地を発進した221機のB-29爆撃機により三度目の大空襲に見舞われる。 しかし、八幡製鉄所を防衛する航空戦力も地上戦力も既に力が無くなっていた。 この日のB-29による爆撃には新種の焼夷弾(ナパーム弾)が使用された。 目的物を全て焼き払う恐るべき爆弾だ。
                         焼夷弾を投下するB-29
 
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一個の爆弾に内臓した三十数個の小型焼夷弾が空中で分散して落下するように開発されている。 この日、B-29爆撃機から、なすがままに投下された4万発以上の焼夷弾によって八幡は火の海となり、市街地の大半が壊滅した。
                        焼け野原となった八幡市街地
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次の日の89日午前112分、長崎にも原爆が投下された。
 
                                            長崎に原爆投下
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そして、815日にやっと終戦を迎えたのだった。
前年の昭和19616日に北九州がB-29による初空爆に見舞われ、同じ日にアメリカ軍がサイパン島へ上陸した時点で、日本が敗戦を認めることが出来たならば・・・・少なくとも、その後の多くの悲劇は回避出来ただろうに・・・・。
 
終戦後、お見合いで結婚した父と母の長男として、うっちゃんは生まれた。 お産は戸畑から移転した筑紫郡御笠村阿志岐七力(二日市の近く)の母の実家だった。  うっちゃんは、じいちゃんとばあちゃんにとっては初孫になる。
 
しかし、生まれた数日後、突然にうっちゃんは顔色が悪くなり、体温が下がり、そして口から泡をブクブクと噴き出し始めたそうだ。 母は、息をしているのかどうかも分からない うっちゃんのぐったりした体を、自身の体温で温めながら、「もうダメだ」と覚悟したそうだ
「水を飲ませなくては」。 じいちゃんが井戸の水を汲みに行った。 間に合わない。
ばあちゃんは、とっさに、長男(沖縄戦で戦死した母の兄)のご仏壇に供えてあった水をうっちゃんの口に含ませた。 しばらくすると、みるみる顔色が戻ったそうだ。
                                              会ったこともない叔父 (沖縄にて戦死)
この話は、じいちゃんとばあちゃんから何十回も聞いた。
ご仏壇の水で生き返ったうっちゃんは、戦死した長男の生まれ変わりだとも言っていた。
じいちゃん、ばあちゃんから、可愛がってもらったのは言うまでもない。
 
うっちゃんが博多都ホテルで結婚式を挙げた時、じいちゃんは既に亡くなっていた。
ばあちゃんは、披露宴の時に、友人や職場の仲間から祝福されているうっちゃんの姿を見ながら、ずっと泣いていた。そして、4年後に静かに亡くなった。
 
じいちゃんとばあちゃんは、戸畑で苦労して一代で作り上げた事業と生活を、B-29から投下された2発の爆弾によって、一瞬のうちに全てを奪われてしまった。 戦死した長男や子供達を育てた戸畑の町を、晩年は懐かしく想っていたのだろうと思う。
 
うっちゃんの最後の勤務地は、なんと戸畑への転勤辞令だった・・・希望した訳ではない。 会社の支店・営業所・グループ会社は全国に何百とあるのに・・・・何故、戸畑?
辞令を貰った時から思っていたのだが・・・これは、戸畑の町に微かに残っていた じいちゃんとばあちゃんの魂が、うっちゃんを呼び寄せたのではないかと・・・。
 
毎日、香椎から戸畑へ通うのは、大変だったけど、じいちゃんとばあちゃんが背中のうしろから見守ってくれていると信じて、仕事は一所懸命に頑張った。 戸畑では、いいお客様に恵まれ、いい部下にも恵まれ、最後の勤めを全う出来た。
 
現在のうっちゃんの存在は、昭和19年6月16日の北九州空襲の時から、「運命」として決まっていたのだろうか・・・。   うっちゃんは本当に叔父さんの生まれ変わりなんだろうか・・・。
 

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  ●「人吉海軍航空基地と松根油

  ●「6月19日は福岡市大空襲の日

 
参考文献・画像
■ 叔父が作成した冊子「戦争に振り回された家族の記録」
■ ウィキペディア 「八幡空襲」、 「B-29」 「沖縄戦」、 「戦艦大和」、「グラマン」
ある日の想い・日記   (2015年8月のブログを追加再編集投稿)
                            コロナ退散!