B-29から投下された焼夷弾によって市街は焼け野原となった

呉服町から博多湾方向、右側は大博通り。中央の建物は旧奈良屋国民学校(現:博多小学校)

 

昭和20年(1945年)8月6日広島に原爆投下、8月9日には長崎にも原爆が投下された。 そして、8月15日に終戦。 それより約2ヶ月前の6月19日、福岡市街にはB-29大型爆撃機の大編隊が飛来し、投下した1,300トンもの焼夷弾によって町は焼け野原となった。

B-29大型爆撃機

 

 旧奈良屋国民学校近辺の被害地。 博多湾の先に志賀島と玄界島が見える。

 大空襲から3ヶ月半後の写真。 奈良屋地区は、市内で一番大きな被害を受けた。鉄筋コンクリート造に建て替わっていた旧奈良屋国民学校は、骨格だけが残り、死体安置所となった。 博多湾内に見える船は大陸からの引き揚げ船。 埠頭に降り立った引き揚げ者は、焦土と化した母国を見て、何を思ったろう。

 

あれから78年。 福岡市は復興し大きく発展したが、多くの犠牲と悲しみを忘れてはいけない。 6月10日(土)、福岡県教育会館(箱崎)で開かれた「平和祈念資料展」に行ってきた。

福岡県教育会館

 

 

チラシに書いてある、「平和を願い、戦争の悲惨さ、命の尊さを学ぶ」。 そして、それらを後世の子供たちに伝えていかねばならない。 ブログ投稿の為の撮影許可申請を出して、展示をカメラに収めてきた。 過去の調査資料をも含めて「福岡市大空襲 0619」をまとめてみた。

 

1945年(昭和20年)6月19日テニアン島サイパン島ほか各米軍基地を飛び立ったB-29大型爆撃機の大編隊は、九州南部から北上し有明海から脊振山を越えて、福岡市の南西方向から侵入して来た。 B-29は5~6機ごとの梯団(編隊)を組み、数分毎に時間差を設けて市街の上空に突入。 この頃の北部九州には、防衛する航空戦力も地上戦力も、ほぼ力は尽きていた。 

(福岡市市街 茶色部分が焼失地帯)

 

午後11時過ぎ、敵機の第一梯団が御笠川(石堂川)の西側に焼夷弾投下を始めた。 真っ暗だった町並みに火柱が上がった。 第二梯団は大濠公園の西側を目標に焼夷弾を投下した。 

 

焼夷弾を投下するB-29の編隊

 

これは敵の作戦で・・・地上では民家も商店も工場も「灯火管制」が引かれていたので、真っ暗闇だった・・・よって、市街地の東西に火災を起こし、これで火の目印を作ったのだ。 後続の梯団は、その東西に作られた火の目印の中間を徹底的に爆撃した。 約2時間に渡って、焼夷弾が投下された。 上の地図の茶色の部分のように市街は焼け野原となった。

天神から博多湾方向。 現:天神イオンから須崎に抜けるカーブした旧市電道路付近

 この写真も空襲から数ヶ月後の写真だろう。 博多湾に多くの引き揚げ船が写っている。

 

  罹災面積:3,771 k㎡

  罹災戸数:12,693戸(市内の33%)

  罹災者数:60,599人(市内の44%)

  死者数 :902名

  行方不明:244名

  重傷者数:586名

 

 不発焼夷弾が展示されていた。 長さは1m30cmほどか・・・。

 

この焼夷弾は、日本の家屋が木材と紙(襖・障子)で建てられていることから、市街地に火災を起こす目的で研究開発された。  

 焼夷弾の説明展示があった。

 

 簡単に説明すると、一発の親爆弾が投下中に48発の子焼夷弾ナパーム弾)をバラまく。 ナパーム剤と言うのは、ゼリー状のガソリンのような物で、子焼夷弾は火を噴きながら落下する。 焼夷弾が着地すると、爆発してナパーム剤が周辺にばら撒かれ、あたり一面に火災を起こす。

 

火を噴きながら落下する子焼夷弾

昭和20年6月19日、福岡市街は火の雨が降っていた。

一般市民を攻撃目標とする、こんな無差別爆撃は許されない。

 

展示紹介を続ける。

 B-29爆撃機 搭乗員配置図

 11人の搭乗員。 一番前はパイロットではなく、爆撃手だった。 爆弾庫が広い。

 

 防空頭巾

 綿を厚く入れた頭巾で、女・子供は空襲警報がなると、これを被って防空壕に逃げる。

 

 これは何だと思う?

 

↑↓ どんな時に使うのか、と言うと・・・

 これは「火たたき」と言って、縄の部分を防火用水に浸け、水を含ませる。 焼夷弾が落ちた火事現場で火を叩いて消す道具だそうです。 効果はどうだったんでしょう・・・ナパームの威力からすると、これでは間に合わなかっただろう。 焼夷弾は怖かったと思う。

 

展示の紹介を続ける。

 戦時中の服装。

 

 戦前・戦中に使用された紙幣と肖像画

 左側紙幣の肖像画は、拾円が和気清麻呂、五円が菅原道真、壱円が武内宿禰。 明治時代に紙幣の肖像画に採用された武内宿禰(たけのうちのすくね)が、昭和時代も続いていた。 神功皇后を助け朝鮮半島出征を成功させた武内宿禰は、軍部にとって、「国威高揚」のために必要な人物だったのでしょう。

 

 戦前・戦中のカルタ

 こんなのがあった。「=留守を守って勝ち抜こう」、「=伊勢のカミカゼ 敵国降伏」、「=行きも帰りも 列組んで」、「=ハイで始まる 御奉公」、「=次の日本 僕らが担う」、「=拭う汗水 勤労奉仕」・・・これらは、マインドコントロールだ・・・読んでいて、怖くなった。

 

 子供たちに「敬礼」の練習・・・これは、もっと怖い。

 

 女子生徒には「薙刀」の練習・・・なんと、馬鹿な事を・・・この頃の軍部は狂っている。

 

 福岡大空襲の死没者のご冥福を祈るために、昭和40年(1965年)6月19日、冷泉公園内に「戦災死没者慰霊塔」が建った。 毎年、同月日、慰霊塔前で「福岡市戦災引揚死没者追悼式」が執り行われている。 死没者のご冥福を祈り、平和を願い、そして、戦争の悲劇を伝えていこう。

 

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