狂躁亭日乘・ デザイナーズチャイルド1903181700 | おととひの世界

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リンクも始めましたよ

中国での話ね 
断っておくけどこれは 元々

 どちらかが 
HIV の感染者である 
夫婦の子供を という
願いから始まったことで

最初から改造人間を作ろう
とかいう話ではなかったんだ

ただヒトゲノムの改変が
倫理上引っかかるというのは
中国でも同じで 

この仕事を
請け負ってしまった医者は
大学にいられなくなったらしい

HIV に感染したとき
免疫力を弱らせる遺伝子
詳しくは知らないが
そういうものがあるらしい

それを不活性にしてしまう
すると HIV に感染した 親から
生まれた子供も 
HIV に罹患することなく育つ
罹患しても命に別状はないという

ここで問題点が二つ

日本でももう販売が始まっているが
遺伝子診断キットというもの
アメリカでは比較的簡単に手に入るし

今回の遺伝子改変 
そのキットが使われているらしい
つまり このデザイナーズチャイルド
それほど大きな設備や技術を
伴わなくても

現段階では十分可能だということ
おそらく現場の医者や技術者
できると思ってもやっていない
可能性が高いということ

もう一つはここで操作される遺伝子
免疫に関わるだけではない 
記憶力そのものにどうやら
大きな関わりがあるらしく

遺伝子組み換え
みたいなことをしなくても

最初からその遺伝子を
持っていない子供達は

一定の確率でいるらしい

彼らは HIV に感染しても
抵抗力がある上に 

人並外れて
高い記憶力を持っている
と言うんだね
 つまり今回

抗 HIV 身体能力を期待され
作られた デザイナーズチャイルドは

 結果的に
 おそらく人並外れた記憶力を
持って生まれてくるだろうということ

これは 
生まれてくる前段階で 
例えば裕福な層が

 あらかじめ支配階級になりやすい
 そういう子供を望んで作る
ということが可能になる

 少なくとも現在の 入学試験による
選抜システムがある限り
そうならないか?ということ

しかしおそらく
この先に待っているのは 

人種間の平等というもの
果たして本当なのか?

実はフィクションではないのか?
という問題がどこかで
表面化するだろう ということ

 私は考えずにはおれずと言うか
Clinton の時代に 

ハーバードや イエール 
プリンストン大学 など
名門大学に課せられていた

『 アファーマティブアクション』
つまり 入学学生の 人種的割り振り
もっとはっきり言えば
白人に偏らない 構成比率にする

と言う 
60年代の公民権運動 を受け
作られたシステムが廃止された

あれは 作られた時は 
主に黒人学生のためのシステム
として考えられていた
しかし始まってみると 

名門大学ほど
中国系日系人さらに韓国系など
アジア系の学生ばかりに

アファーマティブアクション
廃止以前に

すでに 非公開で 
アジア系学生制限が
行われていたことが今問題に

ここで浮かび上がってくること

 少なくとも
『入学試験にパスする』という
特定の能力に関して言うと

これが必ずしも知的能力と
イコールではないとは言っても

 アフリカ系よりも 白人よりも
アジア系の方が勝っている

というコンセンサスが
向こうの教育界にも
はっきりある
 ということなんだな

おそらくこれは
誰も公開はしないと思うけど

 なぜアジア系が
入学試験みたいなものに強く
パスしやすいか?

その原因遺伝子を特定する

という研究は必ず
やっているはずだぞ

知的能力を特別視するのは間違い
ということにしてしまい

遺伝子にはバラつきがあり
それによる能力差を肯定すると 
その先に待っているのは

 かなり露骨な階級社会になってしまう

 さらにそれが 
両親の経済的バックグラウンドに
応じて改変可能となれば
なおさらだろうし

私は基本的に 
オリンピックみたいなもの 
もうやめた方がいいのではないか?
と考えてます

少なくとも

『平等の祭典』という
オリンピックについて回る
スローガン 

まるっきり ナンセンスです

競争のフォーマットが
同じというだけでしょ?
 regulation とかもね

それは

人間の才能は
皆平等ということ
前提にしているけれども

全然平等じゃないですよ

なるほど人体の構造は 各人種同じ

しかし 
その出来具合は
最初から差がある

例えば 
骨格と 筋肉を結ぶ 靭帯と腱

特に骨格と直接結びつく
 腱 の 断面積 

アフリカ系が最も広く

 その次がコーカソイド白人

アジア系は
アフリカ系より面積はずっと小さい 

つまり 筋肉や骨格に 
かかる負荷も 最大瞬発力も

 人種の違い により
最初から差があること

もはやはっきりしているんです
かなり前からね

これを同じ レギュレーションで競争させる

そのような 催し
どういう意味があるんでしょう
私にはちょっとわからない

あるとすればそれは
特定のスポーツ産業にとって
だけだろうと思いますよ

 ハンディキャップの人たちが
 頑張ればできる 

その励みにするための
パラリンピックは
意味があると思います

しかしパラリンピックは 

健常者と 競い合うことを
目的にも目標にもしていません

しかしオリンピックは違います

北京五輪の時に
陸上短距離で期待された

 男子中国人選手がいました
 まあコンディションもあって
結局ダメでした 

本人のせいというより
 ほとんど生まれつきなのだから
 責められることもない

よく差別の問題を論じるとき 
人は努力してもどうしようもないことで
差別されるべきではない

という議論に行き着きますよね

生まれた時に
裕福だったか貧しかったか
そんなことは子供には
責任がありません

子供が門地を選んで
生まれてくるわけではない

この議論が正しいなら

生まれつき格差が決まっていて
しかも乗り越え難い格差である

それを見せつける
オリンピックのような ショー

それほど尊いことなのでしょうか?
デザイナーズチャイルドの問題

人間のどこをどう尊いと評価するか?
最終的にはそういう問題になる 

禁止しろ禁止するな
という問題ではないだろうと