Issay's Essay -28ページ目

グループSYSと国東半島

664 「海峡・下関2021」展からグループSYSの『絢爛と無惨と』の一枚霊仙寺観音堂

 清水恒治と吉岡一生は、写真仲間で同年配だった新谷照人(一昨年没)がカメラ店を経営していたことから、その店にいつもたむろしていた。あるとき「何か日本の縮図的な現代を考えるテーマを三人で写真に纏めてみようではないか」という話になり、雑談ながら創作活動への気分が盛り上がり意気投合した。
 昭和37年(1962)6月1日、その日は、写真の日でグループ結成の日となった。
 昭和26年に日本報道写真連盟が出来てから約10年、私たちは下関の馬関港影会と北九州写真協会の写真クラブに所属し、月例会に出席していたものの、まだ30代そこそこで例会などの進行をお手伝いするばかり、作品の批評をされる先生方は、写真の内容についての論議より、写真技術や従来からの芸術性を指摘するにとどまって、例会の帰りには何となく物足りなさを感じていた。
 下関で知り合った画家やデザイナーたとは、侃々諤々と作品を批評し合っていたし、カメラ雑誌でも、ユージン・スミスやカルティエ・ブレッソン、ウイリアム・クラインなどの作品も掲載されていてが写真の先輩方は無関心、ただ昭和31~32年の「ザ・ファミリー・オブ・マン」という写真展は一般の人も含めて大盛況だった。
 そんな時、写真界ではちょっと先輩の、石本泰博・東松照明・長野重一氏ら三者による共同制作のシリーズが雑誌に掲載され、此処に共同制作の意味も感じていたのが切っ掛けで、清水、吉岡、新谷の頭文字を付してグループ名「グループSYS」が出来た。
 それから間もなくのお盆休みに、当時は九州に3ヶ所しかなかった国宝建造物の一つ、国東半島の富貴寺を清水・吉岡の2人が訪問して、初めて六郷満山の存在を知り、仏跡の素晴らしさとその実情を見たことに始まったのがグループ活動の最初になった。
 下関から国鉄で日豊線の宇佐駅ここで軽便鉄道に乗り換えて豊後高田駅、ここまででも約2時間はかかった。それからボンネットバスで目的の集落に、そして徒歩で目的地まで歩くことになる。(富貴寺は、蕗バス停まで40分、それから約4キロ40分位かかった)
 私たちは、2年余りかけて、国東半島の仏跡を訪ねその状況はもちろん、陸の孤島と言われた国東の現状、台風で廃線となった鉄道、青年たちの開拓農業などを取材して『秘められた国東』にまとめ、下関大丸の文化ホールで写真展を開催させて頂いた。
 この開催に際しては、実績も何もない若僧が「大丸さんの文化ホールを使わしてほしい」と交渉したので、真っ先に「写真ですか、個人には会場はお貸しできません」といわれ「いや、個人ではなくグループです」などなど、結局は新聞社の後援も頂いていたので「変なポスターなど張らないように」と言われながら、しぶしぶ承諾された。
 開催してからは、内容もまずまずだったし、客足もよく、特に文化人からの評判も良くて、文化ホールの交渉に当たった方から「厳しくいったがすまなかったね」と言われたのが何よりで、この「国東」こそグループSYSの原点と思っている。
 前回のこの欄で「秘められた国東」を要約した『絢爛と無惨と』を、急きょ新たに制作し、「海峡・下関2021」に是非ともと思って持ち込んだのは、この思いからだった。
 写真は「海峡・下関2021」展からグループSYSの『絢爛と無惨と』の一枚霊仙寺観音堂

「潮流・下関2021」は写真企画

663 下関市立美術館発行の「潮流・下関2021」展のリーフレットの両面

 下関市立美術館は、下関出身または下関を活動拠点とした複数作家の歩みにスポットを当て、下関という場所が、作品や制作にどのような影響を与えたかを問いかけ、歴史ある街・下関から新たな芸術を発信し、文化の発展、美術の「潮流」を体感してほしいという「潮流・下関○○」という企画展を昨年から開催された。
 昨年(2021)の第一回は、画家の石山義秀、日本画家・中原麻貴、彫刻家・伊東丈年各氏の見事な作品が出品されていた。
 今年は、その第2弾「潮流・下関2021」として清水恒治・吉岡一生の二人に焦点を当て、グループSYS(清水恒治・吉岡一生・故新谷照人の三人で1962に結成した団体)の時代からの活動に「写真がとらえた人々、まち、歴史」を考察しようと、私たちの写真が展示されることになった。
 私たちが、グループSYSとして写真活動していたころの作品は、郷遺跡関係が考古博物館、他の文化財展などのほとんどは下関市立図書館で保管されていた。
 ところが、図書館の地下室は湿気が多く、気が付いたときには可成り廃棄せざるを得ない状態で、どうにか助かった作品群は、図書館新設移転のとき考古博物館に移されたが、保存環境は必ずしも良好ともいえず、展示には如何だろうか。
 ほかに、二人の作品の幾らかは美術館に寄託していて、今回は、これらの市所蔵作品群で企画展開催を予定されていた。私たちとしては、非常に光栄で有り難いことだが、一つ寂しく思ったのは『秘められた国東』が無いことだった。
 実は、国東関係の写真は、地元での大分展開催のとき別府大学の賀川教授と出会い「この作品群がお役に立つなら」と口約束で寄贈したことに問題があった。 
 今回の企画展が決まって、美術館から別府大に所蔵確認をされたそうだが、結局、別府大には無いことが分かり、今となっては何処に消えてしまったのかの確認も出来ず、美術館としても動きがないまま、その国東の作品をどうするかの相談もなく夏が過ぎた。
 美術館の企画ではあっても、やはり『国東半島』の写真が無いのは寂しいと、清水氏とも相談して『秘められた国東』の趣旨を抜粋した「絢爛と無惨と」を少ない枚数だが新規制作し、また私としても『本をえらぶ日』の続編として『コロナ禍での選書会』も同時に、美術館に搬入して展示に加えて頂くことにした。
 写真が誕生して約180余年。絵画と同じ2次元の世界で、ひと時その美意識、芸術性を云々された時代もあったが、写真はその記録的創造性も特性の一つで、必ずしも美の法則に追随しない風潮も可としている。
 私の作品は、一見誰もが普通に撮っている「何でもない写真」で、特別に美しさを求めてもいない。それでも、70年間、写真を撮り続けた。その時その瞬間の思いが少しでも滲んでいるかもしれない。その思いを感じて頂けたらと思っている。
 写真は下関市立美術館発行の「潮流・下関2021」展のリーフレットの両面

庭の一隅、ふと安野さんを

662 朝日に映えるツワブキの花と在りし日の安野光雅さん

 これと言って特別の庭でもないが、冬が近づくと石積側の石蕗(つわぶき)に鮮やかな黄色の花が咲く。紅葉には早く、これと言って目立つ花も無い時期なので、その黄色は一層人目を引くのである。
 広辞苑には「キク科の常緑多年草。フキとは別属。暖地の海辺に自生。観賞用に栽培。葉は長枝があり、フキに似、厚くて光沢がある。初冬に60センチ位の花茎を出し黄色の頭花を房状に配列・・」などとある。葉っぱの光沢から艶蕗(つやぶき)を語源にする説があるとか。
 10月晦日、衆議院選挙日は穏やかに開けて、その石蕗の花も葉も朝露にぬれ陽光をひときわ美しく反射しているように見えた。
 ふと、津和野町を思い出したが、「津和野というのはツワブキが多いから」と言われているのだが、私は実際に津和野でツワブキの咲いているのを見たことない。土地の異説には、いたるところに野生している「ツバ」(チガヤの一種)に結びつけて地名を考えたと聞いたこともある。それも一理あるとして、津和野の人は「山間にツワブキがたくさん生える土地があって人は集まり、津和野という町になった。事実、その山の上に城が築かれ、その城を〝蕗城(ろじょう)″と呼び、その町に暮らす人は深い学問と雅びたものの中へ沈潜した。それはツワブキの常緑の葉と花の風格に似て根強く堪えて生きていた」という人もいる。
 その町の人と言えば、森林太郎、西周両氏となるのだろうが、私は安野光雅氏を思い浮かべている。安野さんは、肝硬変で昨年12月24日に94歳で逝去されたことが、本年早々報道された。
 安野さんは、山口県や東京都で教員生活をされていたが画家として独立し、昭和43年(1968)に絵本「不思議な絵」を発表。その後「さかさま」「算私語録」、欧州などを旅した「旅の絵本」シリーズや司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズに同行して挿絵を担当。さらに『平家物語』や『皇居の花』などの出版もある。
 下関市立美術館での作品展も何度か行われ来館のたびに私もお会いした。
 平成8年4月に『安野光雅―平家物語の世界―展』が平氏滅亡のゆかりの下関市立美術館で開催されたとき、彦島の小さなすし屋で安野さんを囲んで夜更けまで飲んだことがある。お話の途中「津和野は故郷だけど”鴎外まんじゅう”を作ろうなどと馬鹿なことをいうやつがいてね、そんなものを売り出したら、僕は故郷と思はないよ、もちろん山口は故郷みたいなもんで…」と笑いながらも、厳しい口調で、ふるさと話を持ち出されたことなどを印象深く記憶している。
 さて、今日の衆議院選挙投票結果は如何なったであろうか。(自公で議席過半数確保)
 写真は朝日に映えるツワブキの花と在りし日の安野光雅さん