グループSYSと国東半島 | Issay's Essay

グループSYSと国東半島

664 「海峡・下関2021」展からグループSYSの『絢爛と無惨と』の一枚霊仙寺観音堂

 清水恒治と吉岡一生は、写真仲間で同年配だった新谷照人(一昨年没)がカメラ店を経営していたことから、その店にいつもたむろしていた。あるとき「何か日本の縮図的な現代を考えるテーマを三人で写真に纏めてみようではないか」という話になり、雑談ながら創作活動への気分が盛り上がり意気投合した。
 昭和37年(1962)6月1日、その日は、写真の日でグループ結成の日となった。
 昭和26年に日本報道写真連盟が出来てから約10年、私たちは下関の馬関港影会と北九州写真協会の写真クラブに所属し、月例会に出席していたものの、まだ30代そこそこで例会などの進行をお手伝いするばかり、作品の批評をされる先生方は、写真の内容についての論議より、写真技術や従来からの芸術性を指摘するにとどまって、例会の帰りには何となく物足りなさを感じていた。
 下関で知り合った画家やデザイナーたとは、侃々諤々と作品を批評し合っていたし、カメラ雑誌でも、ユージン・スミスやカルティエ・ブレッソン、ウイリアム・クラインなどの作品も掲載されていてが写真の先輩方は無関心、ただ昭和31~32年の「ザ・ファミリー・オブ・マン」という写真展は一般の人も含めて大盛況だった。
 そんな時、写真界ではちょっと先輩の、石本泰博・東松照明・長野重一氏ら三者による共同制作のシリーズが雑誌に掲載され、此処に共同制作の意味も感じていたのが切っ掛けで、清水、吉岡、新谷の頭文字を付してグループ名「グループSYS」が出来た。
 それから間もなくのお盆休みに、当時は九州に3ヶ所しかなかった国宝建造物の一つ、国東半島の富貴寺を清水・吉岡の2人が訪問して、初めて六郷満山の存在を知り、仏跡の素晴らしさとその実情を見たことに始まったのがグループ活動の最初になった。
 下関から国鉄で日豊線の宇佐駅ここで軽便鉄道に乗り換えて豊後高田駅、ここまででも約2時間はかかった。それからボンネットバスで目的の集落に、そして徒歩で目的地まで歩くことになる。(富貴寺は、蕗バス停まで40分、それから約4キロ40分位かかった)
 私たちは、2年余りかけて、国東半島の仏跡を訪ねその状況はもちろん、陸の孤島と言われた国東の現状、台風で廃線となった鉄道、青年たちの開拓農業などを取材して『秘められた国東』にまとめ、下関大丸の文化ホールで写真展を開催させて頂いた。
 この開催に際しては、実績も何もない若僧が「大丸さんの文化ホールを使わしてほしい」と交渉したので、真っ先に「写真ですか、個人には会場はお貸しできません」といわれ「いや、個人ではなくグループです」などなど、結局は新聞社の後援も頂いていたので「変なポスターなど張らないように」と言われながら、しぶしぶ承諾された。
 開催してからは、内容もまずまずだったし、客足もよく、特に文化人からの評判も良くて、文化ホールの交渉に当たった方から「厳しくいったがすまなかったね」と言われたのが何よりで、この「国東」こそグループSYSの原点と思っている。
 前回のこの欄で「秘められた国東」を要約した『絢爛と無惨と』を、急きょ新たに制作し、「海峡・下関2021」に是非ともと思って持ち込んだのは、この思いからだった。
 写真は「海峡・下関2021」展からグループSYSの『絢爛と無惨と』の一枚霊仙寺観音堂