別府堅田の弁天池
山口県の厚東川(ことうがわ)は、秋吉台の東部の支流大田川と厚東川ダムの小野湖で合流し宇部市西沖の山で瀬戸内海宇部港に注いでいる。流路延長59.9㎞流域面積405.3平方kmで山口県第4位の河川である。明治時代まで一寒村だった宇部が、石炭と石灰石そして厚東川の水によって工業都市に発展したともいえる河川である。
その厚東川の水とて、溢れるほどある訳ではなく干ばつ時に支流と合流する前に干上ってしまう状態で、例えば嘉万(かま)地方の稲作は古来水争いが絶えなかった。
嘉万盆地の北西に、別府堅田(べっぷかただ)地区がある。堅田という地名は乾燥台地から来ているが、ここには日本百名水と言われる弁天池があり、湧水は『夢枕にたった仙人から授かった青竹を地に刺したところから湧いた』という伝説がある。また『大同元年(806)安芸の国宮島から分霊を勧請し湧水した』とか『別府長者が諏訪明神の夢告で、当地の北にあった弁天社を勧請して祀ったから』などと様々だが、注進案には「池中誠に鏡の如し、田地六十丁余にかかり、池水満々として一郷の重宝也」とある。
湧水の起源はともかく、今でも確かに年間を通じて水量1日1万5千トン、水温14℃~15℃の湧水が約百丁歩の周辺農耕地を潤し、現在は町営養鱒場にも利用されている。
この水路には、井手が7ヶ所に設けられているが、上流と下流の間にはしばしば水充ての交渉あるいは水利慣行論争も引き起こされた。
それほどに、貴重な湧水の恩恵として「郷中三軒に衰え候までは執り行ふべき祈誓」として別府念仏踊り(山口県指定無形民俗文化財)が続いている。
念仏踊りは、水年寄、頭屋、幟持、鉄砲、胴取、棒使、団扇使、鉦打、子踊りなど約40名の道行きに始まり、弁財天社の広場に集まってから始めは庭誉めの口上これが終わると、鉄砲を合図に鉦打ちを始め棒使い、胴取・団扇使いなど入り乱れて踊る。途中三味線に合わせ子踊りがあり、もう一度念仏踊り境内ではざっと1時間半、最後には踊りの主役胴取役の頭にある鶏頭に似せた花飾りを参加者が奪い合ってフィナーレとなる。
秋芳梨を購入した8月7日、久しぶりに弁天池を訪ねてみた、稲穂はすでに色付き以前と変わらぬ景色に見えたが、近くに広い駐車場が出来て、池の近くのマス料理専門店はいつしか廃業して倒壊寸前の廃屋となっていた。
そのまま厳島神社境内に入ると一寸新しい旗が風に揺れていて“あぁ!お祭りがあるのは今ごろだったな”と感じた。観光客らしき人が3人ばかりいた。それでも弁天池は昔ながら、滾々と湧水を続け、曇天でもやや青く聡明な水底を見せていた。
池の側に、町の集会所のような建物があって以前はお祭りに使用されていたが、その一部を利用てマス料理の食堂になっていた。食事は済ませていたので、お店を利用することもなかったが、おかみさんが出ておられたので「お祭りはこの時期では無かったですかね?」と尋ねたら「先週の土曜日でしたが中止になりました」「コロナの関係ですか?」「そうなんですよ!2年続けて中止だったんです」「それでも神事だけはされたんでしょ?」「どうにか神事は済ませましたが・・」その神事だけという話は、市内の各所のお宮などの行事も中止になっている。
人が集まっても200人ばかりの素朴な伝統行事、戦後存続の危機があったときも継続されていた行事が2年も中断している。例え神事だけはあったとしても、有無もなくあの華やかな行事が断絶したことの無念さを直接集落の人から聞いた。
隣接する養鱒場には、多くのマスが泳いではいたが観光釣り堀にお客さんもいない。今はただ、この素朴な集落の雨乞ならぬコロナ収束を願うばかりであろうか。
弁天池の湧水は、人の世がどうであれ太古から変りなく時を刻んでいた。
写真は、透明な水をたたえる弁天池
旅の記念品 24 アイヌ刺繍の鉢巻
かれこれ20年ばかり前のことだが、NHK大河ドラマ『義経』(平成17年放映)が決まったころから源平ブームが起こった。郷土史家の安富さんと話しているとき、関門海峡での源平合戦に関して伝説や史跡をまとめたものが見当たらないので、安徳天皇820年祭などを前に小冊子でもと、平成16年(2004)8月に『水都(みやこ)の調べ-関門海峡源平哀歌』を上梓し翌3月にその写真展を行った。
そのころ、安富さんが「北海道礼文島に『アツモリソウ』という植物が5月ころから咲くそうな」といい、北海道にはその前年、二人は函館、江差、小樽などを巡って北前船や幕末の史跡を見聞しているが、花の富良野などは宿題でもあったので。早速「見に行こうよ」となった。
6月2日、福岡空港7時10分の飛行機。羽田乗り換えで11時25分には稚内空港に到着。稚内から日本最北端の宗谷岬を訪ねた後に、稚内港15時10分のフェリーに乗船し約2時間で礼文島香深港に到着した。
北緯45度20分、東経141度。日本海に浮かぶロシアとの国境の礼文島は、面積80平方km、礼文岳490mが最高、南北に長い島で海岸延長72km、当時は人口3700人だったが現在は2400人ほどになっている。この島は、冷涼なため海抜0mから200種を超える高山植物があり年間25万人もの観光客があると聞いた。
私たちは、港から島の南の高さ250mの桃岩を左に見ながら峠を越えて西海岸の元地海岸に向かった。島の西海岸は硬い堆積岩が浸食され奇岩が続いているが、近くには海から見るとお地蔵さんに見えるという高さ50mの地蔵岩が屹立していた。
この海岸はメノウの原石が打ち寄せるメノウ海岸とも呼ばれ「波の荒い日の石拾いはご注意を」の看板も立っていた。海辺に小さな土産品屋があり、色々と話を聞かせて頂いたが、まさかメノウの加工品は買うことも無く、アイヌ文様といわれる幾何学文様を刺繍して装飾した鉢巻を買って失礼した。
翌日、澄海岬(スカイ岬)、北の果てスコトン岬まで向かい、この時期にレブンキンバイ・ミヤマオダマキ・エゾノハクサンイチゲ・ハクサンチドリ・クロユリなどを見かけることは出来たが、目的のレブンアツモリソウには1週間早かったようで、鑑賞路からはるか離れてぽつぽつ咲いているのを見かけた。そこは北海道指定文化財になっている天然記念物保存地域で14.1haが大蔵省と林野庁の所有地となっていた。
アツモリソウ(敦盛草)は、平敦盛が矢を防ぐ布の袋(母衣=ほろ)の形に似通っていることで名付けられたといわれ、ラン科の宿根草。同じ仲間にクマガイソウ(熊谷草)があり、花はよく似ている。アツモリソウは花弁が丸く袋状で、クマガイソウは球形が二つに割れている。葉の形は全く違う。須磨一の谷で対戦した同志が同じアツモリソウの仲間であるのも面白い。白色の花をつけるレブンアツモリソウはすでに絶滅種になっていて、栽培品種はタイワンクマガイソウが同じ仲間として出回っている。
その日、利尻島にわたり花めぐりとしては、エゾカンゾウや岩場に群生したエゾイヌナズナなど、オタトマリ沼で花の部分が20㎝を超える大きなミズバショウに驚いた。可愛いイメージを持っていたが、まさにそれは北海道のお化けミズバショウだった。利尻の最南端には仙法志御崎公園があって、寄岩が点在した天然の水槽にゴマフアザラシがいた。
案内図で、沓掛岬公園に「出船の港詩碑」があることを知った。これは是非も無いことで、我らが藤原義江の碑である。時雨音羽作詩・中山晋平作曲の大きな詩碑の側で、ボタンを押せば藤原義江の高らかに歌う音が出たことに感激、しかも音質が良かった。『ドンとドンとドンと波乗り越えて一挺二挺三挺八挺櫓で飛ばしゃ…』3番までの朗々とした歌声を、北の果てにエンドレスで聞いた。
翌日、フェリーから遠ざかる残雪の利尻山(利尻富士=1712m)を眺めながら道内に戻って美瑛に泊まり、翌日、富良野を通った。いずれも季節的には少し早かったが、パッチワーク模様も体感したし、残雪を背景にアンズやサクラが満開、咲き始めのラベンダー、ベニハナトチノキ(別名・マロニエ)の花にも出会った。夕張を経て千歳空港16時30分発、福岡空港20時55分着、結構充実した花の旅を満喫して下関駅に22時43分着の帰関だった。
写真は北海道紀行のアルバムに置いたアイヌ刺繍の鉢巻(左)とレブンアツモリソウの花
アユ
漢字では、鮎・香魚・年魚・銀口魚など、呼び方にもアイ・アア・シロイオ、幼魚を・アイナゴ・ハイカラ・氷魚など地方や成長段階などで呼び分けが様々。語源は川を下ることから「アユル」(落ちるの意)、神前に供える「アエ(饗)」に由来するなど。
伝説に「神功皇后が三韓遠征のとき、九州松浦の里で勝てるなら魚が釣れると祈ったところ、アユが釣れた」とある。そこで漢字の由来に占ったからとか、縄張りを独占するなどとある。この記紀伝説は、京都祇園祭の占出山(鮎釣り山)のご神体・神功皇后が、釣り竿と鮎を持った姿で飾られている。
成魚は一般に10~20センチ。北海道から中国など東アジヤ一帯に分布するが、石に着いた藻類を食すので大河より日本の河川に適応した魚といわれ、渓流に橙色の斑点をちらつかせて機敏に泳ぐ爽やかさを清流の美女と例えている。
秋に孵化した仔魚は海まで下り、幼魚になって春になると川を遡って成魚まで成長し、川の下流部で産卵する回遊魚である。ただ琵琶湖などの湖だけで生殖を繰り返しているアユもいる。群馬、岐阜、奈良県は県魚に指定している。
山口県の12河川には、漁業権が設定されウナギ・モクズガニ・アマゴなどが放流されるが、アユも4~5月にかけて約15トンが放流され、山口県は通常6月1日がアユの解禁日となり、シーズンには漁協組合員や遊漁、釣り客で賑わい、初夏の代表的な味覚となる。主な水系としては、錦川、佐波川、椹野川、阿武川などがあり、防府天満宮ではシーズン前に金鮎祭が行われ、錦川では鵜飼いが観光客を楽しませている。
魚は、刺身が最良だがアユの場合は寄生虫などを考慮してあまり薦められない。もちろん清涼感のある活造りはアユの香気と独特の歯ごたえを楽しむこともできる。一般的には、若アユを青竹の串にさして塩をふりかけ焼いたものを蓼酢で食べるのが絶品で、天ぷらも珍重され蓼酢、蓼みそなどで食べる。塩焼きのアユは、後に残った骨を炙り熱燗を注いで骨酒を味わうのも良い。
アユは、酢や塩につけて、酢飯と合わせた「鮎寿司」「鮎の姿寿司」、腸などを塩辛にした「うるか」も珍味だが山口県で話題になることはあまりない。
清らかな環境で汚いものをため込まない、鮎のような人生を過ごしたい。
写真は、落ちアユの塩焼き


