日本遺産といわれても19 三菱重工(株)下関造船所・第3・4ドック
明治末期まで未開発で寒村だった下関彦島(当時は豊浦村)は、明治38年になって大阪硫曹(株)下関分工場(明治48年に大日本人造肥料(株)と合併、昭和8年・日東硫曹(株)に移管)が創設され、それ以降、彦島起業家らによる彦島船渠や江之浦造船などがドック建設計画をする一方、鈴木商店や三菱合資会社など大手企業が目をつけ、造船所設立の許可取得合戦の形で大正2年(1913)三菱合資会社が認可を獲得し、翌3年11月、第1ドックを完成。(同社は、大正6年・三菱造船(株)、昭和9年・三菱重工業(株)彦島造船所となる)大正7年(1918)小型船用の第3ドック、同9年には第2ドックが建設された。
ところで、地元資本による江浦造船(株)(大正7年・彦島船渠(株)と改称、大正13年・(株)大阪鉄工所彦島工場)は、大正5年(1916)10月に1000トン級(長さ55.6、幅10.5、深さ5.9メートル)のドック(建設当初は石積だが現在はコンクリートで覆われ、三菱重工業(株)下関造船所第4ドックとして稼動)を完成。
さらに、大正7年に彦島船渠(株)と改称して同11年(1922)9月には4000トン級(長さ82.8、幅16.3、深さ5.9メートル)の新ドックを竣工させた。(現在も花崗岩切石積の形状をほぼそのまま残していて此のドックも同所の第3ドックとして現在も使用されている)。
第3・第4にゆかりの彦島船渠(株)は、第一次世界大戦後の不況で経営が困難となり、大正13年に(株)大阪鉄工所(後に昭和18年に改称された日立造船株)に買収された。その後、第二次大戦の戦局悪化で戦時生産体制を再編強化する軍需会社法に基づき、三菱彦島造船所に買収された。
これらのドックは、日本遺産の構成にはなっていても一般に構内見学は出来ない。
対岸の巌流島から「DOCK NO.3」「DOCK NO.4」のドック表示を見ることは出来るが、場所の確認は出来ても構造を見ることは出来ない。
サンデンバスの江浦バス停留所の近く、三菱造船所の正門から右手南方、弟子待よりにクレーンが見えるが、細い道をたどれば、そのあたりに大正時代の建設になる第3ドックを塀の外から確認することができる。
「日本遺産と言われても」は下関側を終わりこれで終了する。
写真は三菱彦島造船所構内の第3ドック、対岸に巌流島が見える
旅の記念品22-越中おわら風の盆「記念うちわ」-
北陸や東北の方に行くと「下関からですか!遠い九州からようこそ‥」と言われることがある。立場を逆にして思えば、合掌造りで有名な白川郷とか五箇山、相倉などが、何県か?と言われても、あぁあの辺と思いながらも咄嗟には答えにならない。
今でこそ、富山市に編入されているが「おわら風の盆」で有名になった当時の八尾市は、地理的にはやはり曖昧な場所だった。
私が、八尾市で最初に「風の盆」を見たのは、昭和58年(1983)9月1日のことである。それは、昭和56年にNHKの銀河テレビドラマ『風の盆』が放映され、全国的に知れ渡ったばかりのお祭りに合わせて日程が決められた、都市ガス技術研修会出席のときだった。地元の担当会社は、八尾小学校の特設演舞場観覧席に40名ばかりの招待席を確保されていて、私たちは町流しを自由に見物した後、指定された時間にその招待席に集まり演舞場での披露を拝見し途中で引き上げ、富山のホテルについたのは午後10時過ぎ、この祭り見物は研修会の前夜祭だった。下関でのガス製造技術の発表で参加した私は、研修会よりも祭りの余韻が何時までも印象深く残った。
哀愁に満ちた旋律にあわせての踊りは、深編笠で表情はほとんど見えない。男性は黒の法被(半纏)に猿股、黒足袋姿、機敏で勇壮な男踊り、女性は浴衣だが胴回りや袖の部分におわら節の歌詞が染めこまれたものもある。その黒帯は「お太鼓結び」(これは町によって違うとか)艶やかで優雅な女踊りが、哀調のある胡弓と三味線・太鼓の音色にあわせて無言で演じられる。
八尾市の存在は、後日意識するようになり聞名寺(もんみょうじ)の門前町として発展した町は、かって和紙と養蚕が盛んで藩の重要な財源となり、街は独特な文化が発展したという。起源ははっきりしていないが、一つには元禄15年(1702)7月、八尾の開祖・米屋少兵衛の子孫の慶祝に始まり、それが盂蘭盆の3日に変わり、やがて二百十日の厄日の豊穣を祈る「風の盆」に変わったというのである。
「風の盆」が、絹にも関係していることに興味もある。稲作に風は困りものだが、蚕を飼う場所は風通しが良い環境が必要で、生糸産業の町人が風祭りとして「おわら」文化を開花させたという話もある。
その後、平成元年(1989)に石川さゆり歌唱の『風の盆恋歌』が発表されてから、八尾の町には3日間に30万人の観光客が訪れるようになったという。
私は、平成10年(1998)の文化バスで八尾市を訪ねることを企画した。そのころは本祭前11日間、毎夜11町交代で町流しと輪踊りが披露される観光用ではあるが、のんびりと雰囲気だけでもと思い、八尾の町中の旅館をアタック。幸運にも8月29日、20人ばかりの予約が取れて実行した。
諏訪町あたりは、電線が地中化され屋並みも近代様式に改善されながらも、どこか古風な雰囲気が保たれ、あの哀調を帯びた「おわら風の盆」を、夜遅くまで楽しんだことを思い出している。そのとき観光会館で頂いたビニール製の団扇がある。細い文字で「野麦峠をおわらが渡る 泣いて小とみは オワラ 諏訪へ行く」おわら節の一節にあるのだろう?当時の写真を見ると、あの胡弓の調べが甦ってくる。
写真は越中八尾の町を流す情景と祭りで頂いた記念うちわ
彦島八十八ヶ所霊場(2)-2
弟子待の展望所を訪ねて1週間後に、薬受取りのクリニックに出かけた帰り道、ふと「霊場地図」の中に15基の番号が書かれていた江の浦町の西福寺に立ち寄った。
西福寺に祀られているのは、お大師さん(弘法大師)でほとんどが同様の石像で台石と一体、台の中央に弘法大師、右に霊場番号、左に名前がある。(場所によっては乾漆の像や石像の下の台石に連名の名前も見られる)
此処には地図で記された以外に8基の番号(風化で良く解らないものもある)を確認した。この時住職に会うことも無く、帰ってから地図の番号を見比べてみた。
私は、各所で神社仏閣に立ち寄っているが、特別に霊場巡りが趣味でもなく関心がある訳でもないが、だからと言って、なぜ彦島に霊場があるのかその配置がどうなっているのかが気になり、折角のコロナ禍、時折散歩してみるとしようか!となって、それから年明けの3月彼岸まで、10数回、同じ場所を2~3度訪ねたこともある。
詳しく調べる気持ちが無いので、宅地内に入ることも無く、道路から見える範囲の散歩で、その存在を納得するだけだから、その辺りをぐるぐる回って諦めた場所もある。
あったはずのお堂や屋敷が無くなったり、立派な祠があってもお大師さんが無い場所、お宅が転居していて別な場所に偶然に新しい祠を発見、あるいは地図上に誤って表示された場所もあった。2ヶ所ばかり行かないところもあり全部を確認したともいえないが、二ヶ所の真言宗のお寺、西福寺に23基、真浄寺に3基、そのほかに現地で確認できたのは54基である。昭和61年作成の地図だから、すでに30数年前のもので、変化して当たり前だが、西福寺にその数が増えていたのは転宅などで、お寺に移譲されているだけでも良しとしなければなるまい。
ただ、石像が風化して番号が読みづらいものもあったし、前掛けで番号などが隠れたものも多い。地図の前作者も読み違いがあったかも知れない。また、その場所にそれらしいものが見当たらず、行方不明のものが7~8ヶ所あった。ふと近所の方が「あのお弘法さんは篠栗さんの有名なお寺に行かれましたよ」と聞いたことなどもある。管理者があるのかないのか、そのまま放置され野ざらしの場所もある。また逆に、お花などを活け供え物も置かれた祠も多く大切にお参りされていることも感じた。
不思議なのは、番号の順番が支離滅裂、1番は彦島開闢のお寺と言われる西楽寺で、まぁもっともかな!とも思ってみるが、此処の住職に八十八ヶ所の話を聞いても「それは西福寺さんに」と、かといって両真言系のお寺に聞いてもこの件に関しての明解なお話は聞けなかった。
その彦島八十八ヶ所の発祥の由来もあまり明確ではない。あるお宅で「明治末期に、彦島は工場が次々できるようになって、うちの爺さんも四国から移って来て、そんな仲間でこの八十八ヶ所を祀るようになったのかも知れません」と話していた。
彦島大観(T15)によれば「真言宗の分教会を企てたのは弟子待の妹尾親治氏、江の浦の酉川半蔵・村上憲司氏等が主導者となり大正10年より其の議を起こし遂に大正12年、江の浦に一宇を建立し醍醐派彦島分教会及び高野山大師教会彦島支部等を設立、福島正金導師を聘して布教説教に当たり漸次信者の数を増やした」などとある。
その妹尾親治さんは、私たち兄弟が弟子待で育った家の大家(家主様)さんだった。
彦島八十八ヶ所霊場は、現在のままだと個人的な信仰の場にはなっているが、宗派を超えて西福寺(密教寺院)や西楽寺(指定文化財の阿弥陀如来)、真浄寺と老の山(玄界灘の眺望)、弟子待の大師堂(関門海峡の風景)などなど、その魅力を連携して演出できれば彦島内の巡拝観光コースも可能ではないかと感じた。
写真は西福寺門前の彦島八十八ヶ所石像と擁壁下にある81番の霊場


