彦島八十八ヶ所霊場(2)-2
弟子待の展望所を訪ねて1週間後に、薬受取りのクリニックに出かけた帰り道、ふと「霊場地図」の中に15基の番号が書かれていた江の浦町の西福寺に立ち寄った。
西福寺に祀られているのは、お大師さん(弘法大師)でほとんどが同様の石像で台石と一体、台の中央に弘法大師、右に霊場番号、左に名前がある。(場所によっては乾漆の像や石像の下の台石に連名の名前も見られる)
此処には地図で記された以外に8基の番号(風化で良く解らないものもある)を確認した。この時住職に会うことも無く、帰ってから地図の番号を見比べてみた。
私は、各所で神社仏閣に立ち寄っているが、特別に霊場巡りが趣味でもなく関心がある訳でもないが、だからと言って、なぜ彦島に霊場があるのかその配置がどうなっているのかが気になり、折角のコロナ禍、時折散歩してみるとしようか!となって、それから年明けの3月彼岸まで、10数回、同じ場所を2~3度訪ねたこともある。
詳しく調べる気持ちが無いので、宅地内に入ることも無く、道路から見える範囲の散歩で、その存在を納得するだけだから、その辺りをぐるぐる回って諦めた場所もある。
あったはずのお堂や屋敷が無くなったり、立派な祠があってもお大師さんが無い場所、お宅が転居していて別な場所に偶然に新しい祠を発見、あるいは地図上に誤って表示された場所もあった。2ヶ所ばかり行かないところもあり全部を確認したともいえないが、二ヶ所の真言宗のお寺、西福寺に23基、真浄寺に3基、そのほかに現地で確認できたのは54基である。昭和61年作成の地図だから、すでに30数年前のもので、変化して当たり前だが、西福寺にその数が増えていたのは転宅などで、お寺に移譲されているだけでも良しとしなければなるまい。
ただ、石像が風化して番号が読みづらいものもあったし、前掛けで番号などが隠れたものも多い。地図の前作者も読み違いがあったかも知れない。また、その場所にそれらしいものが見当たらず、行方不明のものが7~8ヶ所あった。ふと近所の方が「あのお弘法さんは篠栗さんの有名なお寺に行かれましたよ」と聞いたことなどもある。管理者があるのかないのか、そのまま放置され野ざらしの場所もある。また逆に、お花などを活け供え物も置かれた祠も多く大切にお参りされていることも感じた。
不思議なのは、番号の順番が支離滅裂、1番は彦島開闢のお寺と言われる西楽寺で、まぁもっともかな!とも思ってみるが、此処の住職に八十八ヶ所の話を聞いても「それは西福寺さんに」と、かといって両真言系のお寺に聞いてもこの件に関しての明解なお話は聞けなかった。
その彦島八十八ヶ所の発祥の由来もあまり明確ではない。あるお宅で「明治末期に、彦島は工場が次々できるようになって、うちの爺さんも四国から移って来て、そんな仲間でこの八十八ヶ所を祀るようになったのかも知れません」と話していた。
彦島大観(T15)によれば「真言宗の分教会を企てたのは弟子待の妹尾親治氏、江の浦の酉川半蔵・村上憲司氏等が主導者となり大正10年より其の議を起こし遂に大正12年、江の浦に一宇を建立し醍醐派彦島分教会及び高野山大師教会彦島支部等を設立、福島正金導師を聘して布教説教に当たり漸次信者の数を増やした」などとある。
その妹尾親治さんは、私たち兄弟が弟子待で育った家の大家(家主様)さんだった。
彦島八十八ヶ所霊場は、現在のままだと個人的な信仰の場にはなっているが、宗派を超えて西福寺(密教寺院)や西楽寺(指定文化財の阿弥陀如来)、真浄寺と老の山(玄界灘の眺望)、弟子待の大師堂(関門海峡の風景)などなど、その魅力を連携して演出できれば彦島内の巡拝観光コースも可能ではないかと感じた。
写真は西福寺門前の彦島八十八ヶ所石像と擁壁下にある81番の霊場
