旅の記念品22-越中おわら風の盆「記念うちわ」- | Issay's Essay

旅の記念品22-越中おわら風の盆「記念うちわ」-

651 越中八尾の町を流す情景と祭りで頂いた記念うちわ

 北陸や東北の方に行くと「下関からですか!遠い九州からようこそ‥」と言われることがある。立場を逆にして思えば、合掌造りで有名な白川郷とか五箇山、相倉などが、何県か?と言われても、あぁあの辺と思いながらも咄嗟には答えにならない。
 今でこそ、富山市に編入されているが「おわら風の盆」で有名になった当時の八尾市は、地理的にはやはり曖昧な場所だった。
 私が、八尾市で最初に「風の盆」を見たのは、昭和58年(1983)9月1日のことである。それは、昭和56年にNHKの銀河テレビドラマ『風の盆』が放映され、全国的に知れ渡ったばかりのお祭りに合わせて日程が決められた、都市ガス技術研修会出席のときだった。地元の担当会社は、八尾小学校の特設演舞場観覧席に40名ばかりの招待席を確保されていて、私たちは町流しを自由に見物した後、指定された時間にその招待席に集まり演舞場での披露を拝見し途中で引き上げ、富山のホテルについたのは午後10時過ぎ、この祭り見物は研修会の前夜祭だった。下関でのガス製造技術の発表で参加した私は、研修会よりも祭りの余韻が何時までも印象深く残った。
 哀愁に満ちた旋律にあわせての踊りは、深編笠で表情はほとんど見えない。男性は黒の法被(半纏)に猿股、黒足袋姿、機敏で勇壮な男踊り、女性は浴衣だが胴回りや袖の部分におわら節の歌詞が染めこまれたものもある。その黒帯は「お太鼓結び」(これは町によって違うとか)艶やかで優雅な女踊りが、哀調のある胡弓と三味線・太鼓の音色にあわせて無言で演じられる。
 八尾市の存在は、後日意識するようになり聞名寺(もんみょうじ)の門前町として発展した町は、かって和紙と養蚕が盛んで藩の重要な財源となり、街は独特な文化が発展したという。起源ははっきりしていないが、一つには元禄15年(1702)7月、八尾の開祖・米屋少兵衛の子孫の慶祝に始まり、それが盂蘭盆の3日に変わり、やがて二百十日の厄日の豊穣を祈る「風の盆」に変わったというのである。
 「風の盆」が、絹にも関係していることに興味もある。稲作に風は困りものだが、蚕を飼う場所は風通しが良い環境が必要で、生糸産業の町人が風祭りとして「おわら」文化を開花させたという話もある。
 その後、平成元年(1989)に石川さゆり歌唱の『風の盆恋歌』が発表されてから、八尾の町には3日間に30万人の観光客が訪れるようになったという。
 私は、平成10年(1998)の文化バスで八尾市を訪ねることを企画した。そのころは本祭前11日間、毎夜11町交代で町流しと輪踊りが披露される観光用ではあるが、のんびりと雰囲気だけでもと思い、八尾の町中の旅館をアタック。幸運にも8月29日、20人ばかりの予約が取れて実行した。
 諏訪町あたりは、電線が地中化され屋並みも近代様式に改善されながらも、どこか古風な雰囲気が保たれ、あの哀調を帯びた「おわら風の盆」を、夜遅くまで楽しんだことを思い出している。そのとき観光会館で頂いたビニール製の団扇がある。細い文字で「野麦峠をおわらが渡る 泣いて小とみは オワラ 諏訪へ行く」おわら節の一節にあるのだろう?当時の写真を見ると、あの胡弓の調べが甦ってくる。
 写真は越中八尾の町を流す情景と祭りで頂いた記念うちわ