彦島八十八ヶ所霊場(2)-1
令和2年(2020)3月中旬のころから、新型コロナウイルス感染は深刻な事態に発展しつつ、不要不急の外出も自粛規制されるようになり、4月になると下関でも患者の発生があって、公共機関の水族館や美術館などは休館となった。
これが切掛けで、角島灯台の一般入場者不在の時に灯台の内部を写真に記録したいと下関市文化課では海上保安庁と交渉し、同行取材のお誘いを受けて5月12日は角島、5月29日は六連島灯台を保安庁立会で撮影した。ゴールデンウイークの行事が一切中止され、家に籠りっきりの状態の時だけに、このお誘いは有り難いことだった。
この間、5月20日の午後、天気のよさに誘われ「弟子待に海峡展望所がある」と聞いていたので散歩のつもりで出かけてみた。
以前から、巌流島を指呼の間に見えるこの辺りは、時折出かけてはいたが周辺の雑木が払われて展望も良くなっていた。ずいぶん前はこの上に植田公園があってサクラの名所、花見などで賑わった場所だが何時しか草藪になってしまった。
この開けた場所には、彦島八十八ヶ所の霊場・大師堂があることは全く知らなかった。この日、この場所を整備されているKさんと偶然に出会った。山口から彦島田の首町に移住し、たまたま土地を手に入れ退職してから展望が出来る憩いの場所に開発中「此処にお大師さんが祀られているのは偶然、でもこのお堂は無視できないし、しかも彦島八十八ヶ所の19・45・83・88の四か所があるんです。先日、下関市長も来られて『素晴らしい場所じゃね!88番もある』と言われ、これが放送されたので来られる人が増えましてね‥」と話が長い。
場所は、彦島弟子待町1丁目9-2。下関駅からは彦島方面弟子待行のバスで約20分、弟子待2丁目のバス停で下車。バスは海沿いの道を南の終点に向かうが、目的地は反対方面関門海峡を右に見て北に向かう。そこには簡単な標識があって「巌流島と関門橋の展望地・彦島八十八ヶ所霊場・弟子待大師堂・徒歩8分」などと書かれている。道は途中の、昭和シェル石油(株)(元日本グリース工場)の門あたりまでは広いが、少し山手に曲がり工場跡地を取り巻くようにさらに北上(工場跡地は太陽光パネルが並んでいる)道は登りにかかる。現地までは車高のある普通車ならどうにか入れるが。現地の駐車場は3~5台、途中での離合は厳しい。道はさらに北上して江の浦町7丁目の三菱造船所の南に通じるが、これは山道で徒歩でも時に藪漕ぎの状態になる。
現地では、少し高台の石垣の上に6坪ばかりのお堂があり、内部の入り口周辺は整備され掲示などもあり「八十八ヶ所霊場地図(昭和61年)」もコピーして置かれ、訪問された方への気配りはなされているのだが、肝心のお大師さんの祭壇などは可成り傷んだままで特に整備された風もなく、Kさんに他の彦島八十八ヶ所のことを訪ねても「全く知りません」ときっぱり。
ふり返った正面は、約1000mの関門海峡大瀬戸を隔てた対岸は、北九州市門司区片上海岸その背景は風師山(風頭山=362m)であり、やや左足元には500m離れて巌流島、その向こう北北東約5kmに関門橋が見える。
この場所は、確かにKさんの努力で花も植え、椅子や丸太も置かれて休憩できる設えもあり、開発途中の隠れた関門海峡展望所であろう。
写真は弟子待大師堂(右)と同展望所からの関門海峡眺望(手前が巌流島)
日本遺産と言われても 18 -旧宮崎商館-
JR下関駅から長府方面への国道9号線を唐戸の交差点で北に県道57号線に入り200m位、信号を過ぎる直前、西の端バス停の手前で左折の一方通行入口の通りがある。
この西の端大通りはかってのメインストリートで、目的の旧宮崎商館はすぐ右側にある。西に隣接して下関商工会議所(現在は駐車場)さらに旧逓信省下関電話課庁舎(下関近代先人顕彰館)があって、この一帯は明治後期には外国系の商社・洋館が立ち並んでいたと言われるが戦災などで一変した。
宮崎商館は、神戸で石炭輸出業を興した宮崎儀一が、明治26年(1893)に支店を下関に開設後、拠点を下関に移して明治40年(1907)に建築した建物である。
当時の下関は、船舶用の燃料貯蔵や補給のための給炭港として注目され、筑豊炭の販売・積み出しに三菱社が出張所を設けたほか、英国系のサミュエル商会、貝島合名会社など石炭事業を営む大手企業が進出していた。
古写真で見られる、旧英国領事館北側の煉瓦造り三階建ての洋館は、ジャーディン・マセソン商会下関支店で、後に貝島合名会社の本社だった。
さて、現存する旧宮崎商館の建物は、街路に南面する煉瓦造り二階建て、銅板葺き。建築面積197㎡。一階には中央部分にアーチ状の玄関があり元石と要石の間に迫石を挟む。左右の窓枠は切石の楣(ひさし)と窓台を延ばした水平帯で立面を引き締める。そして二階のベランダは要石を入れた五連アーチとして開放的、正面は美しいシンメトリである。
この建物は、戦災で屋根が焼け落ちたが幸い外壁が残されたため、戦後改修され保険や化粧品などの事務所、或いは住居、美容院などにも利用され、さらに平成20年(2008)窓まわりが古写真をもとに復元改修された。
現在、一階は医院、二階は最近まで女優木暮美千代の資料館となっていた。
旧英国領事館が出来て間もなくのころ建築されている宮崎商館は、隣接していた旧貝島本社ともデザインが類似していて、設計者があるいは関係しているのではないかとの興味もある。
関門地区の日本遺産と言われる建築群は、下関に関しては幾らか山口銀行別館で紹介されているが、総合的に紹介する資料館などが欲しいところである。
-日本遺産・関門ノスタルジックなどの資料を参考にした-
写真は旧宮崎商館正面と左側に先人顕彰館
旅の記念品 21 -分福茶釜の文鎮-
思えば、長い人生の間に仕事での出張や写真の取材などで各所に出かけ、様々な見聞を経験した。そして何時しか、全国の都道府県で通過したことはあっても其処を目指して行ったことが無いのは、群馬県と山梨県だと思っていた。
それぞれに知人や友人もいるし、全く興味が無いわけでもないのに出掛けるチャンスが無かったのだが、「旅の記念品」シリーズを書いているある時、机の片隅にある「分福茶釜の文鎮」も記念品だなぁと思った。
私は、あちこちで「文鎮」を購入して日常使っているし、この文鎮も長さ13㎝、幅4㎝の大御通帳の上に分福茶釜が乗っかって持ちやすく座りも良いので重宝している。その記念品を思いついたとき、それを買ったのは、私の弟が連れて行ってくれた館林の茂林寺門前のお土産品だったが、確認してみると館林市は群馬県だったのだ。
弟は、学校を卒業するとすぐに関東圏の会社に就職し其処で所帯を持ち、住居を構えたのは埼玉県熊谷市であり、かれこれ半世紀以上を暮らしている。
弟の子供たちが、結婚するたびに出向いて、私たちも旧婚旅行を楽しんできたが、その都度、弟は近郊の史跡や観光地を案内してくれ、舘林市の茂林寺を訪ねたのは平成11年5月のことだった。夕方になっての訪問で、本物の分福茶釜拝観はかなわなかったが「ここがあの物語で有名な」と紹介され、総門から山門につづく参道には信楽焼の狸像がずらりと並んでいた記憶がある。
「分福茶釜」の物語は「館林にある茂林寺。茶の湯を趣味にするその茂林寺の和尚さんがある日、茶釜を買って寺に持ち帰えった。和尚が居眠りの最中に、その茶釜が頭やしっぽ、足を出したので小坊主たちがこれを見つけて大騒動。和尚はそんな話を信じなかったが、お湯をわかそうと茶釜を炉にかけると、狸はその熱さに耐えかね、ついに正体を現した。驚いた和尚は、これを買ってきた屑屋に売り戻した。
その夜、寺でさんざんな扱いをうけた狸は、屑屋にその不思議な姿をあらわし、自分は狸の化けた茶釜「ぶんぶく茶釜」だと名乗り、軽業や踊りの芸を人前でやるから助けてほしいと屑屋に持ちかけた。そして大夫の曲に合わせた見世物、綱渡りなどの茶釜の芸は人気を呼び、屑屋を大繁盛させた。その後、元の姿に戻れぬまま病気となり死んだ狸は、茂林寺で供養してもらって、その茶釜が寺の宝として安置された」というもの。
物語には諸説があって、曹洞宗、青龍山茂林寺(本尊・釈迦牟尼仏)縁起では「応永年間より代々仕えてきた老僧守鶴が、住職7世のとき千人法会で披露した無尽の茶釜が由来、いくらお湯を汲んでも湯が無くならなかった。その釜は福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と命名された。この茶釜を持っていたという守鶴は、10世住職のとき、ふと狸の姿を現してしまい、寺を去った」とある。(実際は羅漢の化現だったか?)
現存する茶釜は、容量1斗2升(21L)、周囲は4尺(約120㎝)、口径は8寸(約24㎝)で、一般の参拝者も有料で見学することができる。
改めて地図で確認してみると、弟が住んで居る熊谷市と舘林市(茂林寺)との距離は、直線距離で利根川を挟んで15㎞の所だった。その時、宇宙飛行士の向井千秋記念館なども紹介されたことなどを思い出したが、いずれも群馬県である。
今思えば、群馬県の南東部に突き出た部分、ツルの嘴と呼ばれているそうだが、タヌキのしっぽだったかも知れない。確かに群馬県の一部に立ち寄っていて、行っていない県は山梨県だけということになった。
写真は茂林寺参道の狸像群と分福茶釜文鎮


