別府堅田の弁天池 | Issay's Essay

別府堅田の弁天池

658 透明な水をたたえる弁天池

 山口県の厚東川(ことうがわ)は、秋吉台の東部の支流大田川と厚東川ダムの小野湖で合流し宇部市西沖の山で瀬戸内海宇部港に注いでいる。流路延長59.9㎞流域面積405.3平方kmで山口県第4位の河川である。明治時代まで一寒村だった宇部が、石炭と石灰石そして厚東川の水によって工業都市に発展したともいえる河川である。
 その厚東川の水とて、溢れるほどある訳ではなく干ばつ時に支流と合流する前に干上ってしまう状態で、例えば嘉万(かま)地方の稲作は古来水争いが絶えなかった。
 嘉万盆地の北西に、別府堅田(べっぷかただ)地区がある。堅田という地名は乾燥台地から来ているが、ここには日本百名水と言われる弁天池があり、湧水は『夢枕にたった仙人から授かった青竹を地に刺したところから湧いた』という伝説がある。また『大同元年(806)安芸の国宮島から分霊を勧請し湧水した』とか『別府長者が諏訪明神の夢告で、当地の北にあった弁天社を勧請して祀ったから』などと様々だが、注進案には「池中誠に鏡の如し、田地六十丁余にかかり、池水満々として一郷の重宝也」とある。
 湧水の起源はともかく、今でも確かに年間を通じて水量1日1万5千トン、水温14℃~15℃の湧水が約百丁歩の周辺農耕地を潤し、現在は町営養鱒場にも利用されている。
 この水路には、井手が7ヶ所に設けられているが、上流と下流の間にはしばしば水充ての交渉あるいは水利慣行論争も引き起こされた。
 それほどに、貴重な湧水の恩恵として「郷中三軒に衰え候までは執り行ふべき祈誓」として別府念仏踊り(山口県指定無形民俗文化財)が続いている。
 念仏踊りは、水年寄、頭屋、幟持、鉄砲、胴取、棒使、団扇使、鉦打、子踊りなど約40名の道行きに始まり、弁財天社の広場に集まってから始めは庭誉めの口上これが終わると、鉄砲を合図に鉦打ちを始め棒使い、胴取・団扇使いなど入り乱れて踊る。途中三味線に合わせ子踊りがあり、もう一度念仏踊り境内ではざっと1時間半、最後には踊りの主役胴取役の頭にある鶏頭に似せた花飾りを参加者が奪い合ってフィナーレとなる。
 秋芳梨を購入した8月7日、久しぶりに弁天池を訪ねてみた、稲穂はすでに色付き以前と変わらぬ景色に見えたが、近くに広い駐車場が出来て、池の近くのマス料理専門店はいつしか廃業して倒壊寸前の廃屋となっていた。
 そのまま厳島神社境内に入ると一寸新しい旗が風に揺れていて“あぁ!お祭りがあるのは今ごろだったな”と感じた。観光客らしき人が3人ばかりいた。それでも弁天池は昔ながら、滾々と湧水を続け、曇天でもやや青く聡明な水底を見せていた。
 池の側に、町の集会所のような建物があって以前はお祭りに使用されていたが、その一部を利用てマス料理の食堂になっていた。食事は済ませていたので、お店を利用することもなかったが、おかみさんが出ておられたので「お祭りはこの時期では無かったですかね?」と尋ねたら「先週の土曜日でしたが中止になりました」「コロナの関係ですか?」「そうなんですよ!2年続けて中止だったんです」「それでも神事だけはされたんでしょ?」「どうにか神事は済ませましたが・・」その神事だけという話は、市内の各所のお宮などの行事も中止になっている。
 人が集まっても200人ばかりの素朴な伝統行事、戦後存続の危機があったときも継続されていた行事が2年も中断している。例え神事だけはあったとしても、有無もなくあの華やかな行事が断絶したことの無念さを直接集落の人から聞いた。
 隣接する養鱒場には、多くのマスが泳いではいたが観光釣り堀にお客さんもいない。今はただ、この素朴な集落の雨乞ならぬコロナ収束を願うばかりであろうか。
 弁天池の湧水は、人の世がどうであれ太古から変りなく時を刻んでいた。
 写真は、透明な水をたたえる弁天池