旅の記念品(25)-対馬(2)-1-「朝鮮通信使絵入りの湯飲み」
下関から日本海を隔て西に約130㎞、逆に東に行けば広島までの距離なのだが、おいそれと行ける場所でもない。南北は82㎞、東西は18㎞、総面積が約710平方km、総人口約3万人の長崎県対馬。
この島に、下関歴史博物館長・町田一仁さんが定年後、「対馬博物館(来2022.4開館予定)」の建設のため渡られ3年になるだろうか、その分館「対馬朝鮮通信使歴史館」が、10月30日に開館したと報道された。
国境の島、古く防人を置いて海防の要となり、文化も信仰も文物交流も常に大陸の接点となった島である。特に蒙古襲来、朝鮮通信使の架け橋、日露戦争を観戦した島であり、私は、平成15年(2003)に行った時の印象を「いのちと歴史を封じ込めた対馬」と記している。
そもそも朝鮮通信使というのは、室町幕府の足利義満将軍から永和元年(1375)に派遣された使者と国書に対して、高麗王朝の返礼として信を通わす使者として派遣されたのが始まり。しかし、しばらく途絶、豊臣秀吉の文禄・慶長の役によって国交断絶となり中断、一般にはその後の江戸時代に再開された12回の派遣外交使節団を指し、正式名称は朝鮮聘礼(へいれい)使といわれる。
下関市と朝鮮半島は、まさに有史以前からの交流があって、近年においては戦後、李承晩ライン問題など深刻な問題もあったが、昭和33年(1958)抑留船員第一次帰国、以後昭和41年(1966)駐下関韓国領事館開設・昭和45年(1970)6月、下関ー釜山間に国際フェリー開設。昭和51年(1976)10月下関市と釜山市との姉妹提携。平成16年(2004)「朝鮮通信使行列再現」などと、政治・経済・文化さまざまなグローバル化が進み信頼関係を深めた因縁もある。
朝鮮通信使の来日は、釜山から対馬を経た一行が、壱岐から日本本土の下関に到着する。
毛利藩の受け持ちはさらに上関に続く。4~500名の乗船する6隻の船団は、案内・警護の日本船団が一緒になって瀬戸内海を進み、大阪からは陸路・東海道を通って江戸に到着。このルートの往復である。
5~8ヶ月を費やした大行事であり、沿道に当たる各藩において輸送と接待の役が命じられ失敗も失礼も、もちろん事故は当然許されない責任重大な応対が求められていた。
朝鮮通信使の構成は、使節団の三使(正使・副使・従事官)が高位の官人で、随員には学者・文人・書家・画家など一流の人物が選ばれて参加していて大文化使節団である。
一行の宿舎には、国内の学者など多くの人々が、書画の揮毫や学問の質疑など外国の状況・情報の把握に努め、沿道の行列には、民衆がつめかけ大陸文化を自分の目で確かめ、熱狂的な歓迎をして賑わったという。
この通信使の実現の裏には、対馬藩宗氏の朝鮮国との講和交渉にあたって、最初は国書の偽作ほか並々ならぬものがあった。その工作が判っていても、友好親善の文化使節団としての交流に発展していった。それだけに、対馬では朝鮮通信使実現への役割を担った誇りもあり、街には通信使に関りのあるモニュメントも多い。
厳原にあった対馬歴史民俗資料館は「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコの「世界の記録」に登録されたのを機に、抜本的な新館建設にかかり、その一切を任されたのが、町田一仁さんである。
私は、対馬を訪れたとき「通信使の図柄をプリントした湯飲み」を買ったが、その『朝鮮通信使説明書』には「徳川時代朝鮮から将軍の代替わりなどの慶事に際し、慶賀の使節が来朝したが、対馬藩が、その先導と護衛をして江戸まで往復した。1607年より1811年の200年間に12回に亘り、一回に500人前後に達し、その往復も5ヶ月から8ヶ月の月日を費やしたという。その異国情緒あふれる行列を対馬厳原町では毎年8月第一日曜日の「アリランまつり」に再現している。出動人員も250人以上で韓国より舞踊団、農楽団なども参加してまさに圧巻である。(朝鮮通信使行列振興会)」とある。
思えば、下関が一生懸命に朝鮮通信使の街として努力されていながら、こうした記念品が見当たらないのは不思議である。
写真は朝鮮通信使の碑と対馬での記念品「お湯呑」
八丁原地熱発電所
年に一度は九重に出かけていた仲間がある。別に山に登るわけではないが「高原の空気を吸ってリラックスしよう」というのである。ところが昨年はコロナ禍で中止になり、今年もモミジが過ぎようとしていたころになって声がかかった。
11月中旬、何とか天気もよさそうなのでと、下関を日の出前に出発、途中の耶馬渓に8時ごろ到着、ちょうど岩肌に陽光が照り始めたころでモミジは最高、ちらほら観光客もあるが、お店は今から準備をという状態だった。ここの混雑が苦手で何時も一寸早めの出発なのである。それからおよそ1時間で飯田高原の長者原に到着。山男たちはさらに早く、すでに多くの車がいて、次々と山登りの様子だった。
正面の三俣山(標高1745m)や星生山(1762)などは、1500mから頂上にかけては3日位前に降った雪が残っていた。周辺の紅葉を残しているのはナラの種類であろうか、カシやクヌギなどは落葉していた。
私たちは、折角来たのだからタデ原湿原自然研究遊歩道の絶景コースと名づけられた約800mの木道を、風もなく穏やかな日差しを浴びながら、歩くことにした。
枯れススキの穂先は、まだ如何にか逆光線で白い輝きを残している。ところどころヒゴタイの枯れ花が茎とともに存在感を見せている。若い人はこのコースを20分ばかりで一周するが、写真も撮りながら途中も休憩して、その風景を楽しみながら高原の空気を存分に吸ってリラックス、4~50分を楽しんだ。
さて「あとは如何しよう?」と言われたとき「全く久しぶりだけど、発電所を見学してみたい」と提案。メンバーには「見学できるの?」という方もあって賛同された。
先日来COP26会議が開催され、温室効果ガス排出削減目標についての話し合いで日本は消極的すぎると「化石賞」を贈られた。それはワーストの賞である。
石炭火力は段階的削減、LNGさえ使用禁止の声まで出たという。脱炭素、CO2削減が急務となっているので、地熱発電の現況はどのようになっているのか知りたかった。
地熱発電は、地下、千~3千mまで井戸を掘り噴出する高温蒸気でタービンを回し発電する方式で、二酸化炭素の排出はほとんどない。使用した後の熱水は再び地中に戻すか近くの温泉や農業ハウスなどにも利用している。
日本はこの豊富な地下資源を抱えながら、全国には70地点92基、いずれも小規模で合計発電出力は約54万kW、火力や原発を含めた総発電量に占める割合は0.3%にすぎないという。
私は、昭和40年(1965)ごろ地熱発電所の目途がついたと報道され、日田彦山線に乗って九重に出かけ、何も取材出来ずそのお湯を引いた湯坪温泉に泊まって帰った苦い経験があり、その後、大岳発電所が運転(1967)されてから、改めて工場見学した記憶はあるが、今回は昭和52年(1977)に1号機、平成2年(1990)に2号機が完成し、発電能力11万kW(国内最大)の八丁原発電所の展示室で見学させて頂いた。
現地展示室では、映像で概要を見て、担当のガイド嬢が模型などで要点を説明、さらに構内を歩きながら現地施設を実地に見ながら説明されたが、実際のタービン発電機が設置された内部などに入ることはなく外観見学に終わった。
この発電所には運転員は居らず、約2㎞離れた大岳発電所に監視施設を置いて3交代24時間体制で総合的に運転が行われていた。
確かに、再生エネルギーとして位置づけされる地熱発電は、放射線に関わりなく、国産資源で天候に左右される太陽光や風力発電に比べ、安定して発電が出来て稼働率も高く注目もされるが、山間部の広い敷地で、もくもくと排出される蒸気を見ると、場所的な条件も必要であり、再エネとは言え建設費など施設拡大に課題が大きいことも感じた。
モミジを堪能しながら「いい見学をさせて頂いた」と皆さんに喜ばれ何よりだった。
写真は八丁原地熱発電所構内での見学風景
金色のポスト
東京オリンピック2020が始まって3日目の、平成3年(2021)7月25日、柔道の阿部一二三選手と阿部詩選手、兄と妹が金メダルを獲得した。
その翌日、内閣官房は東京オリンピック(五輪)・パラリンピックで金メダルを獲得した日本人選手の栄誉をたたえるため、ゆかりの地に郵便ポストを金色に…「ゴールドポストプロジェクト」を実施すると発表(日刊スポーツ)した。
同日朝、郵便局勤務の旦那さんを送り出したRちゃんからのメールで、このニュースを知った。私たちは‟阿部兄妹の町は何処じゃろうか、金色ポストがいきなり2個だなぁ”などと話題になり、その後のメールなどでも、関東地区などに散らばっている私たち兄弟親族の出身選手の活躍に金色ポストの楽しみもあって、メールのやり取りは絶えなかった。
2020年はオリンピック開催の年だから、私は、道下美里選手の姿を撮っておこうと、一昨年(2019)の下関海響マラソンで彼女の往復の走りを記録した。彼女はそのフルマラソンを走りながらも、沿道の応援者に終始、笑顔で走り続けていた。
そのオリンピックは、コロナ騒ぎで一年延長されたが、パラリンピック最後の9月5日、女子マラソン(視覚障害T12)道下美里選手(44)=三井住友海上=は、3時間0分50秒で金メダルを獲得した。この日も、その笑顔は変わらなかった。
「あの伴走ロープは私にとって命綱」と聞いたときは、やはり、伴走者がよほどの信頼者でなければ「あの笑顔」は見られないだろうと思っていた。
今回も、青山由香、志田淳両氏のガイドランナー2人に伴走され、あの笑顔は変わることはなかった。テレビ観戦で‟今度こそ優勝まちがいなし“と信じながら応援した。スタート時は小雨模様だったが後半には雨も上がり、道下さんは一気にトップランナーとなり、そのままグランドに入ると薄日がさしはじめ、優勝のテープを切った瞬間その日差しを受けた。それはまさに祝福のスポットライトだった。
早速、下関では各所に横断幕など張って祝意を表していた。下関出身となってはいても福岡市在住で練習も福岡で行っていて、帰宅して早々最初に福岡市長に表敬訪問し祝福された。さて「ゆかりの地」はどうなるだろうと思っていたが、11月7日は、下関海響マラソンで道下さんがゲストランナーで出走することになっている。
前日の6日に、所用があって市内の唐戸まで行くと「今日は道下さんが来て中之町のポストの除幕がありますよ」と懇意にしているカメラ屋のあるじが言う。「金色ポストかね、下関で佳かったなぁ」と言ったものの〝狭い場所″が頭をよぎった。
「あんた、撮影を頼まれたん?だったらお任せする。脚立をもっていって、良い写真を撮ってあげてよ」と、彼に撮影は一任である。
郵便局長と自治会長から時間や進行内容まで知らされていたようだから、かなりの動員はされているだろう「蜜は間違いなし」と判断しての遠慮だった。
家族が経営していた中野書店に生まれ育った道下さんにとっては、100mも離れていない唐戸地区の下関中之町郵便局。地区関係者約100人が集まった中で、道下さんや市長らが除幕を終え、道下さんはゴールドポストに第一号の手紙を投函。多勢の人に「これほどの人が集まっているのを感じて、馬関まつりで楽しかった賑わいを思い浮かべました。ポストが唐戸のシンボルになり人通りが増えることを期待します」などと挨拶したという。
今回の設置は、全国では7ヵ所目、パラリンピアンのゴールドポスト、中国地方での設置はいずれも初めてだった。
「お帰りなさい美里さん」市民に温かく迎えられた。道下さんには、やはり下関は忘れられないふるさと、金色ポストは、確かな道下さんのゆかりの地「ふるさとの証言者」となった。
それにしてもゴールドと言えば「金の鯱」のようなキンピカの光輝きを連想していたが、何とも地味で鈍いゴールドポストだった。
写真は、除幕式で挨拶する道下さんと金色ポスト(津志佳秀さん撮影)と海峡マラソン(2019)での道下さん


