香月泰男のシベリア
昨年(2021)末、小冊子が届いた。『香月泰男のシベリア』(私家版非売品)となっていて、編者・発行は木本信昭氏である。友人と言っては失礼かも知れないが、元下関市立美術館副館長で後に有田町教育長などを務めた。画家・陶芸家・文筆家!先に『仏教随想 歎異抄にきく』を出版されたとき、この欄でも紹介したが兎に角、多趣味人である。
この冊子は、下関市立美術館友の会創立10周年の記念事業で「立花隆講演会」(平成8年(1996)1月4日)を下関市民会館で開催したとき、著書の木本氏が立花氏と対談された採録である。50ページほどのものだが、この講演会に関り、記録写真撮影などを行ったこともあって、対談のみならず、あの日の情景をつぶさに思い浮かべるほど臨場感にあふれた内容で、改めて香月泰男画伯に関わる様々なことを想いうかべた。
私は、昭和20年代に毎日新聞宇部通信局の西島信輝記者と懇意になり、彼が退職された後、昭和53年(1978)に「ふるさと季刊雑誌『防長春秋』」を発刊され、その3号の広告をと山口合同ガスに来られた時、偶然に再会したのが切掛けで、その後5年間、彼の体調不良で廃刊となる15号までの記事写真や特集グラフ写真などを手伝った。
西島さんは、創刊号から最後まで、その表紙を香月泰男画伯の絵やオモチャにこだわり、早速、第3号の表紙のために香月家を訪れたのが最初である。
香月画伯は、心筋梗塞で昭和49年(1974)に63歳で亡くなられていたが、西島氏は記者時代に生前屡々、お宅にも訪問されていたのであろう、その日も親しく婦美子夫人に迎えられ、私を紹介された。
私が、香月泰男氏の絵を最初に見たのは、たまたま宇部の渡辺翁記念会館で絵の展覧会があった時「ウサギ小屋」だったか?山口県の人だと聞いたときである。その後、下関市立高等女学校(現山口県立下関南高校)の先生だったことやシベリアシリーズなどは知ったが、その日、婦美子夫人と話すきっかけも無かった。
「来年はヒツジ年ですからこれなんか如何でしょう」と準備されていたのが、香月画伯が平素から手作りされていたオモチャだった。「木片を見ると羊の毛肌に見えたのでしょうね、そんな発想からオモチャを作っていましてね、この2匹目には「祝・為泰樹(ひろき)・1969ってあるでしょう!」長男直樹さんの長男がヒツジ年生まれの誕生祝に、夫人の勧めで造られたものだった。その後も、表紙用の色紙絵やオモチャと言われる細工物などの撮影に何度か西島さんと香月邸を訪問した。
その後、俳人・岡崎木石さんが句集を発行するとき「香月画伯の色紙で絵文字のような『華』を撮影してほしい」と、あるいは俳人・大田里灯氏の『清明といのちと』の新聞連載のときも土井南国城先生と香月氏の関りで香月家にお邪魔したこともある。
立花氏の講演が始まる前に、別室で香月婦美子夫人とお会いした。講演は、2時間の予定が4時間にもなった。実際に、シベリアの大地を踏査されての「香月氏のシベリアシリーズ」の解説だから、なおさら説得力があった。そして木本さんとの対談である。超満員の聴衆は途中で退場される方は無かった。
『シベリアこそ私を鍛え直し、シベリアが私を画家にした』立花氏は「戦争体験、特に酷いシベリア抑留にしても香月さんはネガチィブでなく、むしろ積極的にポジティブに捉えたことが、たぐいまれな芸術家になられた」などと話された。
その立花隆さんは、急性冠症候群のため昨年(2021)4月に80歳で逝去、次いで5月22日には香月婦美子さんが103歳で亡くなられた。あれ以来ずっと年賀状を頂き、下関先人顕彰館オープニングに来賓で来られた時に一寸だけ挨拶をしたのが最後、昨年末に次男の理樹さんから喪中のお葉書を頂いた。改めて、皆さんのご冥福を祈るばかりである。不思議な因縁で香月画伯を思い浮かべる一冊だった。
写真は木本氏の著書(表紙部分)と立花氏の講演会より
黒田征太郎展
昨年の12月4日から本年(2022)1月30日まで、福岡県の田川市美術館で北九州市門司区にお住いの「黒田征太郎展」が行われているので、その初日に出かけて行き、思わず楽しく有意義な時間を過ごさせて頂いた。
私が、黒田氏に最初にお会いしたのは、平成15年(2003)に下関市立美術館で展覧会があった時で「絵話教室」という熱気あふれるイベントに圧倒されたが、翌日には唐戸市場での平家太鼓とのセッション、その日、門司港の屋外で、それぞれ即興の大画面製作を披露され、まさに圧倒された黒田週間だった。あれから20年近くなる。
その時に手にし、あまり見もせず仕舞い込んでいた『黒田征太郎KAKIBAKA描く男』(求龍堂)を改めて見て『ずーっと描いてゆく』そして『手書き年表』『年譜』は、それまでの生涯でさえ、幅広く旺盛な制作内容、創作活動の様子などを知り驚いた。それ以後も何度かお会いしたこともあるがそれとなく挨拶した程度、同じ田川市の主催する『英展』の審査では特色のある入賞作品を見ていたが、今回は同美術館開館30周年企画展にふさわしい作品群だと納得させられた。
オープニングのイベントとして、椿組の外波山文明氏とのトークのまえに、外波山さんらによる野坂昭如氏の戦争童話『ウミガメと少年』の朗読があり、黒田征太郎の絵がスクリーンに映し出され臨場感を高めた。その中に一枚「眼から一滴の涙があふれる」アップがあったのに思わず感動した。これがすべてを表現していた。
そしてトークは、勿論、野坂昭如氏との関係、椿組との因縁・ポスターのこと、1+1の話など、長いお付き合いを感じるざっくばらんの内容あるお話だった。
黒田氏は、アメリカで野坂昭如氏の戦争童話集を手にされてから、戦争のこと命の存在を改めて意識され『話の特集』からの展開などがあったことを、直接聞いて、その後の活躍の原点が此処にあることを知った。
展覧会場を見て一番最初に印象に残ったのが『自弔の鐘』(野坂氏と新聞連載された切り抜き)で、これには会場壁面にクレパス状のもので落書きした「これは未完で終わりました原子力発電所がテーマだったからです」とあった。このメッセージは会場全体に響き渡っていると思った。『アートっていうのは、人間が活きている証』会場の作品からアートの発している音(声)は、きっと観衆(聴衆)に聞きどけられると信じた。展覧会場には黒田氏のこうした壁面への落書きが各所にあって、美術館側もこれを良しとしているのである。≪副館長に聞くと、あとは記録にとって壁面は塗料の塗り替えをすれば済むことですからと平然とされていた≫
当日、帰る間際になって、せめて会場の入り口で記念写真をと思い、受付の方に承諾を頂こうとしたら「今回は、会場の中も撮影OKですよ」と言われてびっくり。思わず場内をもう一度廻って、何ヶ所か撮影させて頂いた。記憶の悪いこの年になったら、帰ってから印象はあっても、心に焼き付いていない。最初の本の中にあった言葉に『描いてはいけないということを想像するとゾッとする』とあったが。写真をするものとしては『撮ってはいけない‥』いわゆる「撮影禁止」場所にもよるが、ゾッとすることの多いこと屡々。さすがに、おおらかな黒田展だった。
写真は黒田征太郎氏と展覧会場風景
旅の記念品(28)-五島(2)-2-「バラモン凧」
五島列島は、もともと上五島の宇久島を本拠にしていた宇久氏(平家盛=平忠盛の次男が文治3年〈1187〉に上陸)が勢力を張っていて、弘和3年=永徳3年(1383)に福江島岐宿に移り、さらに辰の口城(福江島上大津)から江川城(同島江川)に移った。第20代・宇久純玄が、秀吉の命で朝鮮に出兵した文禄5年(1592)に五島氏に改姓した。
藩の成立は、慶長8年(1603)初代藩主・五島玄雅(純玄の嗣子)が徳川家康に謁して1万5千余石の所領を認められてからである。この江川城が慶長19年(1614)に焼失した後は、築城が認められず石田陣屋(現在の石田城跡)の仮の館となっていた。
築城の許可が出たのは幕末の嘉永2年(1849)で、外国船が頻繁に来航するようになって、防備のための石田城(福江城とも記される)の重要性が増してからのことである。
城の完成は文久3年(1863)第11代・五島盛徳のとき、約15年、2万両、延べ2万人を要して、ようやく日本初の海城が日本で最も新しく完成した。二の丸跡には庭園も現存している。
この城は、完成後5年で明治維新となり城は解体され、その後本丸跡には長崎県立五島中学校(現在の五島高校)が建設された。港に近い市街の中心地に福江城跡と城下町、堀端や屋敷の石塀など和風情緒もたっぷりで、繁華街の五島海鮮グルメも楽しめる。
ところで、五島観光はバスの乗り継ぎではどうにもならない。五島では環境に優しい電気自動車(EV)のレンタカーが準備されている。五島観光なら「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産登録(2018年)となった教会をと思うかもしれないが、150ばかりの島々に50ほどの教会はあるものの、福江島には遺産登録されたものはない。
しかし、ヨハネ五島を記念して建設された堂崎天主堂を始め、水之浦教会、井持浦天主堂を巡るだけでも禁教令以来の熾烈な弾圧に耐え信仰に貫いた信者の深い祈りの歴史が感じられる。もちろんこうしたキリシタンの島と思われているが、現実には人口の一割くらいで、寺院もある。明星院(吉田町)は、唐から帰朝した空海が延暦23年(804)に参篭して開創、五島家代々の祈願寺で、真言宗であり文化財もある。ほかの大円寺、大宝寺なども見逃せない。
空海といえば、岐宿郷魚津ヶ崎の白石湾は遣唐使国内最後の寄港地で、船を整備し、食料を補給し風待ちしたところである。近くの三井楽町には空海の遺徳を顕彰するため、自然石に「辞本涯」と深堀した見事な碑が建っている。
さて、日本列島の最西端に位置する大瀬崎断崖は九州一の男性的な景観と言われ、高さ150m、約20㎞にも及ぶ海蝕断崖が連なり突端に白亜の灯台がある。地元の方の話では「本土から出征する兵士たちはこの断崖を見て思わず敬礼したそうですよ!」と言われていた。福江島の西海岸線は“本土最後の感慨が湧くのだろう”
五島では「バラモン凧」という民芸品が作られている。「バラモン」とは、五島の方言で荒々しく向こう見ずという意味があるそうで、絵柄は鬼が真正面から兜を加えこんだ姿である。敵に後姿を見せない勇者の姿を表現しているという。
また、絵柄の中にはクルスの形があり隠れキリシタンの島、或いは八幡船の基地としての歴史を感じさせる興味もある。男の子の初節句(旧3月3日)に、空高く揚げて厄を払い無事成長と立身出世・家内安全を祈願していたという。実際には、凧の上部に弓状の「うなり」をつけて風を切る独特の音を発するようになっている。
現在は、福江空港の近く、全山芝生(3年に一度山焼きがある)のなだらかで展望の良い鬼岳(315m)でたこ揚げ大会があるという。
余談だが、バラモン凧と壱岐鬼凧・平戸鬼洋蝶などには共通性があり、同じ長崎県長崎市に伝わる「凧」を、形状や図柄を見比べるだけでも、文化の違いを感じてしまう。
五島は、ロマンを秘めながらも、哀しい、美しい、そして優しく力強い島である。
写真は大瀬崎断崖の灯台とバラモン凧


