「潮流・下関2021」展を回顧②-1 -写真のちから-
下関市立美術館の企画で、昨年11月20日から、本年令和4年(2022)1月10日まで開催された『潮流・下関2021』展は、長いようでアッという間に終わってしまった。
公的な美術館が、写真に着目されたことに感激し敬意を持ち嬉しさがあった。それも、私たちの写真で構成されたことは大変有難く光栄なことだった。
自分ではこれほどの個展などは無理なことで、ましてや有料開催、申し訳ない気持ちもあったが、この2年間コロナ禍で公設会場がしばしば閉鎖したこともあり、第5波が落ちついた時期で、会場入り口には来場者の消毒検温、連絡先の記載などの協力を得ながら、初冬から師走、新春迄の寒さの中での展覧会が、こともなく終わったのは幸運だった。
美術館からは「入場者も予定を超え、評判も良かった」と聞いてひとまず安堵、これも平素から皆さんのお蔭があったからだと感謝のみである。
このコロナ騒ぎ終息かと思わせた状況は、1月中旬から一変して、今回は米軍基地のある山口県などを含め全国的に感染拡大は急ピッチで進み、下関でも桁違いの感染者が確認されている。
今回の写真展では入場者芳名禄は置かれて無かったが、出口には「メッセージを」との表示があり、これに気付かれた方から寄せられたメッセージなどを見ることが出来た。
その大半は「励ましの言葉」や「感動した」「良かった」などとあって、有り難く受け止めるとして、その内容は「モノクロ写真の力」「動画とは違う一瞬の凄さ」なかには「声や音が聞こえる」などとあって、写真の持つ力を発見され、じっくりと写真を読み解く方も居られたと思った。
グループSYSのコーナーにおける写真は、共同制作としてそれぞれの写真は、テーマ性を持っていて、それをいかに伝達できるかが写真の命題であった。これを感じ、さらに写真からの物語を少しでも読もうとされた方があったようで、美術館がこの写真を企画された趣旨もここに在っただろう。
懐かしさ、思い出につながる方も居られた反面、若い方には「知ることが無かった当時の風景」「写真がなければ伝わらなかった」「長門町の賑わい」「電車のある都会だった、下関は如何して電車を失くしたんでしょう」というのもあり、写真がただのノスタルジーではなく、展示されたことでそこから何かの発見があったこと、表情などから祈りや願いまでも感じられた内容が書かれていたのが嬉しかった。
綾羅木郷遺跡については「発掘の手伝いをした」「実家の墓参りで削られていく風景は見ていた」「かっての綾羅木の闘いの日々のことを聞いてはいたことを思い出しました」などとあって、これらのメッセージの受け止めは複雑な問題点も秘めているので、これを「その2」として記録したい。
写真は「潮流下関2021」展入り口の状況と私の新作「コロナ禍での選書会』展示会場
旅の記念品31 -つわの和紙人形-
昨秋、庭のツワブキの花を見て、ふと小京都とも呼ばれている津和野町ご出身の安野光雅氏が亡くなられたのを偲んだ。その津和野をまたまた思い出したのは、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まったことで、津和野が歴史上に現れる弘安5年(1282)元寇再来に備えて、鎌倉幕府の御家人吉見頼行が能登の国からこの地に下り三本松城(1324完成)を築いたことにある。
以来吉見氏が14代300年間、そして関ヶ原の戦後、坂崎出羽守の治世16年間、元和3年(1617)には因州鹿野城主亀井政矩が4万3千石で入城、亀井氏は11代で明治4年(1871)の廃藩置県まで、鎌倉時代から約600年にわたる伝統的な城下町だった。
藩校の充実で西周、森鴎外ら明治文化の先駆者を輩出した町としても有名だが、太鼓谷稲成神社、津和野城址、堀庭園、乙女峠、サギ舞の祇園祭などなど観光地としても人気があり、特産品にアユ、ワサビ、源氏巻や石州和紙などもある。
津和野の製紙業は、吉見氏の時代には始まり坂崎氏の入城においてもコウゾ栽培を勧めて製紙業発展の基礎を築き、亀井氏は紙専売制度を敷き藩の独占企業として租税の大半を紙で代納させ、上納紙は大阪市場で売り捌かれ膨大な収入を得ていた。
ところが、この上納紙にまつわる庄屋から代官、奉行までの疑獄事件に発展した義民・仁左衛門父子が無実の罪で処刑された哀れな話が後々まで語り継がれ、その後しばしば発生した津和野大火も、城下のものは仁左衛門父子の呪火というほど哀愁をそそっている。
下関信用金庫と吉南・宇部・津和野の4信用金庫が合併し「西中国信用金庫」としてスタートしたのが平成19年1月、それから間もなく平成21年(2009)5月には創立100周年を迎えるということで、私はその記念誌発行のお手伝いを依頼され、2007年頃から関係市町を廻っていた時、森鴎外旧宅の近くにあったお店でふと目に留まった「紙人形」が、記念誌の一部に津和野の象徴として使用できるかもしれないと購入して帰った。
高さ74cm、幅25cmで、花をちりばめ飛び交うサギを模様にした振袖をまとい赤い帯を締め、長い髪の毛にリボンをつけ、いかにも津和野盆地で素朴に育った可愛い女の子である。それでいて大きな黒い目が何となく哀れみ深さを思わせる。
透明なビニールの袋に入れられ、永い間我が家の部屋の片隅に吊るされている。
結局、記念誌に登場することも無かったが、現在の津和野で和紙が漉かれているか?和紙人形が作られているか?の確認をしてもいないが、結構大きなこのお人形が、時折、美しくも悲しい津和野の歴史を思い起こしてくれるのである。
写真は津和野市街と和紙人形
旅の記念品30 -用瀬の流し雛-
三月三日はひな祭り、5節句の一つで古くは桃の節句と呼ばれていた。
神社暦の中には「中国の三月上巳の祓いとわが国上古の雛遊びが結びついた、雛を飾り桃の花を白酒・三色又は五色の菱餅・あられなどを供えて女児の息災を祈って、お祝いする。雛遊びや、雛流しなどの行事もある」と書かれている。
日本では、古くから神様に対するお祓いとして、形代(紙人形)をつくり、これで身体を撫でて災いなどを移し、川や海に流した。ひな祭りなどは、その流しびなに託しての神様へのお願いの意味が濃くなったもので、科学や医療が進んでも神様にお願いする日本古来の風習がなお続いていることが頼もしい。
下関の赤間神宮では、曲水の宴と雛流しの神事が関門の風物詩になっている。
平成12年に、写真仲間から「私の田舎に、文化財に指定された素朴な雛流しがありますよ」と聞いて、そこは旧暦での行事だったが、早速、仲間同士の親睦バス旅行を1泊2日で計画したことがある。
鳥取市内から約20km南の用瀬(もちがせ)町は、鳥取藩領で智頭街道沿いの宿場町として栄えたところで、参勤交代の休憩所としてのお茶屋もあって、街道沿いに続く町並みに土蔵造りの商家や格子窓のある町家など古民家が残り繁栄ぶりが伺える。
智頭町の、沖の山に源を発する千代(せんだい)川は、因幡国の多くの谷の流れを集めるので千谷川とよばれ(異説もある)ていた、北上して中流域の用瀬を通り、河口一帯は鳥取砂丘の西側で日本海に注ぐ、延長52kmの一級河川である。
現在は、平成16年(2004)に鳥取市に合併しているが、人口4000人ほどの用瀬町として、全国のひな人形の歴史や各種1000体を常設展示する館を計画して、京都の金閣寺をモチーフに木造の「流しびなの館」を昭和61年(1986)に建設した。
4月7日に予定されていた雛流しの前日午後、砂丘の夕景を撮影した私たちは、鳥取市内に泊まり、当日は市内の観音院に立ち寄ってから用瀬に到着。
先ず、その「流しびなの館」を見学して雛流しの状況を聞いた。それから美しい町筋に、格子戸のある商家の玄関先には、芽吹きした柳の枝とふっくらしたネコヤナギに添え桃の花の小枝が何気なく活けられ、軒からは行燈もぶら下がっている。その紙張りの行燈に「雛の餅搗くおと楽し顔なじみ 春江」と俳句なども描かれていた。町家の家々では、雛段を飾り表戸を開けて公開されていたり、他の家でも2つの雛壇を並べ、さらに時代の違う立雛なども添えて賑やかに飾りたて、座敷に上がれる場所もあった。
こうして町中を歩きながら「流しびなレディー」のタスキを掛けたミス用瀬であろうか、2人のお嬢さんにも出会った。
午後からは、町筋の各所から着飾った少女が花を添えた流しびなをもって会場となる千代川のほとりに集まってくる様子が見られるようになると「観光客が、大勢集まられますよ」と聞いていたこともあって、あらかじめ目星をつけていた会場の中ノ瀬に陣取った。
地元のカメラマンは、長靴で流れの中に悠々と入ってくる方もいる。こうして1時間ばかり待ったころ、川岸に集まった子供たちは家族と共に流れに近寄って来て、桟俵に乗せた紙人形に花などを添えて川面に雛を流し、そっと願いを込めて可愛く手を合わせた。
少女たちは、祖父母の慰霊、父母の健康、学業成就、無病息災など様々な願いを託しているのであろう、それが私たちの思い通りの場所で行われたのである。
昭和60年(1985)に鳥取県無形民俗文化財に指定された「もちがせ雛送り」の一部を確かに観せて頂いた。本来は素朴で静かな行事であっただろうと、俄か観光客一員としてこれが町に為には良かったのか、一寸反省させられるほどの賑わいだった。
インターネットで見ると「コロナウイルスの終息が見込めないので前年に引き続き今年は中止、ただ家庭の『雛送り』については伝統行事なので粛々と自由な判断で・・」となっていた。記念品は、流しびなの館で求めた民芸品「流し雛」である。
写真は、平成12年の用瀬の雛流しと民芸品「流し雛」


