旅の記念品30 -用瀬の流し雛-
三月三日はひな祭り、5節句の一つで古くは桃の節句と呼ばれていた。
神社暦の中には「中国の三月上巳の祓いとわが国上古の雛遊びが結びついた、雛を飾り桃の花を白酒・三色又は五色の菱餅・あられなどを供えて女児の息災を祈って、お祝いする。雛遊びや、雛流しなどの行事もある」と書かれている。
日本では、古くから神様に対するお祓いとして、形代(紙人形)をつくり、これで身体を撫でて災いなどを移し、川や海に流した。ひな祭りなどは、その流しびなに託しての神様へのお願いの意味が濃くなったもので、科学や医療が進んでも神様にお願いする日本古来の風習がなお続いていることが頼もしい。
下関の赤間神宮では、曲水の宴と雛流しの神事が関門の風物詩になっている。
平成12年に、写真仲間から「私の田舎に、文化財に指定された素朴な雛流しがありますよ」と聞いて、そこは旧暦での行事だったが、早速、仲間同士の親睦バス旅行を1泊2日で計画したことがある。
鳥取市内から約20km南の用瀬(もちがせ)町は、鳥取藩領で智頭街道沿いの宿場町として栄えたところで、参勤交代の休憩所としてのお茶屋もあって、街道沿いに続く町並みに土蔵造りの商家や格子窓のある町家など古民家が残り繁栄ぶりが伺える。
智頭町の、沖の山に源を発する千代(せんだい)川は、因幡国の多くの谷の流れを集めるので千谷川とよばれ(異説もある)ていた、北上して中流域の用瀬を通り、河口一帯は鳥取砂丘の西側で日本海に注ぐ、延長52kmの一級河川である。
現在は、平成16年(2004)に鳥取市に合併しているが、人口4000人ほどの用瀬町として、全国のひな人形の歴史や各種1000体を常設展示する館を計画して、京都の金閣寺をモチーフに木造の「流しびなの館」を昭和61年(1986)に建設した。
4月7日に予定されていた雛流しの前日午後、砂丘の夕景を撮影した私たちは、鳥取市内に泊まり、当日は市内の観音院に立ち寄ってから用瀬に到着。
先ず、その「流しびなの館」を見学して雛流しの状況を聞いた。それから美しい町筋に、格子戸のある商家の玄関先には、芽吹きした柳の枝とふっくらしたネコヤナギに添え桃の花の小枝が何気なく活けられ、軒からは行燈もぶら下がっている。その紙張りの行燈に「雛の餅搗くおと楽し顔なじみ 春江」と俳句なども描かれていた。町家の家々では、雛段を飾り表戸を開けて公開されていたり、他の家でも2つの雛壇を並べ、さらに時代の違う立雛なども添えて賑やかに飾りたて、座敷に上がれる場所もあった。
こうして町中を歩きながら「流しびなレディー」のタスキを掛けたミス用瀬であろうか、2人のお嬢さんにも出会った。
午後からは、町筋の各所から着飾った少女が花を添えた流しびなをもって会場となる千代川のほとりに集まってくる様子が見られるようになると「観光客が、大勢集まられますよ」と聞いていたこともあって、あらかじめ目星をつけていた会場の中ノ瀬に陣取った。
地元のカメラマンは、長靴で流れの中に悠々と入ってくる方もいる。こうして1時間ばかり待ったころ、川岸に集まった子供たちは家族と共に流れに近寄って来て、桟俵に乗せた紙人形に花などを添えて川面に雛を流し、そっと願いを込めて可愛く手を合わせた。
少女たちは、祖父母の慰霊、父母の健康、学業成就、無病息災など様々な願いを託しているのであろう、それが私たちの思い通りの場所で行われたのである。
昭和60年(1985)に鳥取県無形民俗文化財に指定された「もちがせ雛送り」の一部を確かに観せて頂いた。本来は素朴で静かな行事であっただろうと、俄か観光客一員としてこれが町に為には良かったのか、一寸反省させられるほどの賑わいだった。
インターネットで見ると「コロナウイルスの終息が見込めないので前年に引き続き今年は中止、ただ家庭の『雛送り』については伝統行事なので粛々と自由な判断で・・」となっていた。記念品は、流しびなの館で求めた民芸品「流し雛」である。
写真は、平成12年の用瀬の雛流しと民芸品「流し雛」
