萩・笠山の探訪
昨年(2021)末に、萩市に出かけ、ふと思い出して笠山に行ってみた。
萩市の中心地から北東に約4km、越ケ浜漁港から明神池を過ぎて日本海に突き出た半島の最高地点が笠山の頂上で標高は112.2mである。展望台の喫茶店で休憩。あまり天気は良くなかったが、視界はまずまずで日本海に点在する六諸島(羽島・肥島・大島・櫃島・尾島・相島)と遥か(約40km)北方洋上には見島も見えていた。
見島はともかく六諸島のほとんどは、流動性の強い溶岩流で出来た(アスピーデ)台地状の島々で眺望がすばらしい。海は、群青と言いたいところだが青みがかった鉛色、荒れてはいないが山陰独特の冬の海だった。
その方向には虎が崎のヤブ椿の群生林があり、明治時代初期には薪炭用に利用されていたといわれる。昭和45年(1970)に、虎が崎の椿の自生地を訪れた薬学博士の渡邊武氏が「雑木や蔦かずらを処理すれば観光地になる」との助言で整備が始まり、多くの種類がある椿林の観光化に成功した。思えば萩市には松陰神社のある辺りは椿東という地名があり、別に椿八幡宮とか霊椿山大照院などと椿に関した名前もある。ここでは深く考えないことにするが、春に先駆けてツバキ原生林は観光客で賑わう、笠山のツバキは有名になり過ぎたかもしれない。
笠山は山頂に、径・深さとも30m程の火口があって内部に降りる階段もある。もともと笠山は六島の溶岩台地と同じころの第三紀鮮新世~第四紀に噴出した溶岩台地の島であったものが約8800年前に爆発的噴火によって火口周辺に火山砕屑物が円錐状の火山体を作ったもので、遠くからその山容を見ると「市女笠」に似ていることでその名がついたと言われている。
死火山と聞いていても、噴火口に入る気分はあまり良いものではないが、その最深部まで降りてみた。
説明板には「マグマのしぶきが空中で冷え固まった軽石(スコリア)が降り積もって出来ていることが分かります」とある、しかし、赤褐色の溶岩の破砕のように見えるものは軽石とも思えない岩肌を見せ「君が代」ではないが「さざれ石の巌」の感である。
昨(2021)10月下旬、沖縄本島の港に軽石が漂着して急に大問題になったが、その元凶は8月13日、小笠原諸島の福徳岡ノ場が急激に噴煙の高さ1万6千mに達した(気象衛星ひまわり)噴火(大正3年=1914=の櫻島火山噴火に次ぐ規模)があり、軽石や火山灰は1~5億立方m、東京ドーム80~400倍と言われ、新島が出来たが東側の半分以上が間もなく水没した。
この噴火で、大量の軽石が海面を埋め尽くしていたが、軽石筏(いかだ)となって漂流し、2ヶ月を経た10月上旬には1000km以上離れた、沖縄県大東島北部さらに中旬には奄美から沖縄本島で確認され、下旬には各所の港湾を埋め尽くす状態となった。なお被害は、日本列島太平洋岸、あるいは伊豆諸島に及ぶと予想されたが、それ以後の報道を見かけない。伊豆・小笠原諸島は漠然と知ってはいたが、東京都の1200kmも続く島嶼部の火山帯というか海底カルデラ、フィリッピンプレートと太平洋プレートの接する地域の遥か南方、南硫黄島の北北東約5kmに福徳岡ノ場というのが在ることを今回の軽石事件で初めて知った。
人類の起源と同じころ、北長門の阿武火山群の激しい火山活動があってあの扁平な島々を誕生させ、さらに爆発的な噴火で誕生した笠山。今回は海底火山の噴火ではあったが、各所の火山活動とともに人類の生存に様々な影響をもたらしている。赤い岩肌を見ながら、火山の不思議な因縁を巡らせた笠山探訪だった。
写真は萩市の笠山火口壁面(左)とヤブ椿群生林
旅の記念品(29) -岩国の石人形-
2年も続いた新型コロナ騒ぎも、幾らか下火になり昨年末ごろから何となく回復された感じで、クリスマスなども気分は緩み帰省客も従前の近づき、西日本はお天気が良かったせいか三が日の初詣は、何処の神社も超満員の過密状態となった。
年末年始、何処の施設もまだまだコロナ対応に気を緩めている風でもなく、それなりの対応はなされていても、大衆はマスクこそ付けていても開放気分であったに違いない。そのしっぺ返しであろうか、年明け早々、全国的にコロナ感染者倍増の勢いが止まらず、我が山口県でも米軍基地のある岩国地区で思わぬ感染者が出ている。
第二次世界大戦の終戦前日に、岩国では500人を超える死者を出すほどの大空襲に見舞われ《それは、終戦を知った米軍が爆弾を捨てに来たのではないか》という話が流れたが、日本三名橋の一つ錦帯橋とその周辺の町は被災を免れた。しかし昭和25年9月のキジア台風で錦帯橋は流失、300年の風雪に耐えた橋が、あえなく流されたのは、戦後基地整備のために河原の砂利を大量に採り、戦時中は松根油採取や木材の伐採で山は荒れ放題となってやはりこれも戦争の被害だったといわれた。
2年後に復旧された錦帯橋は、全長205m、幅は4.8m。4基の島状の橋台を築いて、これに五つのそり橋を架け、五連の半円形木橋となっていて、中央の三連には橋脚もない。
錦帯橋は、吉川氏の要塞と居館のある横山地区と、対岸の家臣団と消費生活を賄う錦見地区とを結ぶ城門橋で、三代藩主・吉川広嘉が延宝元年(1673)に研究苦心の末落ちない橋を創建した。
これには、寛文4年(1664)長崎から招いた帰化僧・独立禅師が、広嘉に見せた「西湖志」の図にヒントがあり、川の中に島を築き、甲斐の猿橋のようなアーチを架ければよいとの策を思いついたのだが、一度は失敗し2度目の架け替えのとき、当時の風習で人柱が考えられた。
一人の貧しい武士が人柱に決まったが、その男には二人の美しい娘があった。父を失うことを悲しんだ姉妹は、約束の日、白装束で父の身代わりを願い出て、橋台に身を沈めた。その後橋下の清流からは、人の形に似た小石が見つかり、哀しい姉妹を思ってか、それを人形石と呼ぶようになった。
乙女の生まれ変わりと言われる人形石は、ニンギョウトビケラという昆虫が、こいしや砂で造る筒巣。現在も錦帯橋の石垣や敷石などで採取され、岩国の民芸品「石人形」となっている。
この2年間、コロナ禍で多くの人柱、犠牲者がでた。早く終息を願いたいものだ。
写真は岩国の錦帯橋と民芸品の「石人形」
常住のともしび
源平合戦最後の舞台が関門海峡であり、下関には源平に関しての史跡や行事も多いので、子どものころから、源平に関わる伝説なども各方面から聞かされていた。
勿論、平家物語の冒頭「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」という文言も、しばしば耳にして、平家滅亡を諸行無常・因果応報といった世界観を感じ、平家伝説に関わる各地を訪問し、あるいは能や演劇、琵琶の演奏も聞いたりして、いかにも平家物語をかじった気分になっていたような自分を、今度こそ反省させられた本に出合った。
『常住のともしび』(兒玉波亭著・文芸社刊)である。
下関市の赤間神宮には、元国宝の『紙本墨書平家物語』(長門本平家物語:重要文化財)があり、これは先の世界大戦の昭和20年(1945)7月2日の空襲で被災し、それぞれのページは焼失した状況を残したまま全巻が修復されているが、平家滅亡、これを伝える平家物語の焼け跡、何とも戦の現実を伝える皮肉さえ感じる切実感がある。
平家物語原本の成立は承久~仁治(1219~1243)ごろといわれ、散文体の叙事詩形式で平曲として琵琶法師によって語られ、早くから読み本・語り本など発生し、延慶本・長門本・源平盛衰記や覚一本・流布本など諸伝本がある。
思えば私は、その中の何処かの部分を、然も粗筋として聞き覚えたに過ぎないようだ。
この『常住のともしび』は、高橋貞一・校註『平家物語』(講談社)を底本として、多くの参考図書を読み比べながら、平家物語に登場する合戦の状況と、武人と女人の往生について考察がなされて行くのである。
源平合戦については、源頼朝が平家追討に立ち上がり平家一門が壇の浦に滅ぶまでの約5年間に、源平両氏が軍を出して戦った出来事は17回あるとして、その合戦の様子を暦年的に平家物語要約として、いわゆる戦記物に描き、頼朝、義仲、義経は別に人物像を浮き彫りされている。
この本での著書の主張は、むしろ後半の往生論にあり『源氏物語』が登場人物の生の煩悩の物語であるとすれば『平家物語』は登場する人物が死と対峙する「死の文学」ということが出来るとして考察が進む。
著者はキリスト者であるが、日本人独特の無常観を底流に、仏教、信徒、あるいはキリスト教の信仰の対比をのぞかせながら、法然の広めた浄土教を基調として、日本人の抱く自然観と融合した信仰と死について、末法の時代の中における、それぞれの武士あるいは女人の死生観を描来つつも、無常の対応が常住であり「平家物語」の無常観は、その底に命の蠕動、常住の光明に感じられるとしている。
この本になる切っ掛けは、著者が20年前に書かれていた原稿を、其の侭にしては勿ないと息子さんが立ち上がったことにある。すでに図書出版業者と製本の話が始まっていたとき、私にちらっと製本の話があり、その原稿の量に驚いた。内容が研究書のようでもあり論文にも受け取れる、これは活字ばかりでは、少し硬すぎるので途中に写真など挿入されたらどうか?と言っては見たが、すでに遅かった。
「せいぜい4ページなら」と本屋さんが言うのです、どうにか「平家物語」紀行としてグラフが入り表紙も赤間神宮所蔵の壇の浦合戦図がデザインされた。
著者は98歳、校正を三度、隅々まで読み返されたという丁寧で几帳面な本が出来上がった。息子さんによる親孝行の一冊が見事に完成した。
ところで、織田信長から豊臣秀吉に変わったとき、禁教・バテレン追放が発令されて、イエズス会のコレジオは天草に避難し、ここで足掛け8年の間に30種以上の出版活動を行っている。その大半は宗教に関するものだが唯一文学書として「天草版平家物語」が製本され、それは直訳ではないとしても西洋に初めて紹介された日本文学となった。
私は、400年を経た現在『常住のともしび』の著者が『平家物語』をテーマにされた因縁を不思議にも思っている。
写真は兒玉波亭氏著『常住のともしび』と天草本『平家物語』現代訳本(左下)


