旅の記念品(29) -岩国の石人形- | Issay's Essay

旅の記念品(29) -岩国の石人形-

675 岩国の錦帯橋と民芸品の「石人形」

 2年も続いた新型コロナ騒ぎも、幾らか下火になり昨年末ごろから何となく回復された感じで、クリスマスなども気分は緩み帰省客も従前の近づき、西日本はお天気が良かったせいか三が日の初詣は、何処の神社も超満員の過密状態となった。
 年末年始、何処の施設もまだまだコロナ対応に気を緩めている風でもなく、それなりの対応はなされていても、大衆はマスクこそ付けていても開放気分であったに違いない。そのしっぺ返しであろうか、年明け早々、全国的にコロナ感染者倍増の勢いが止まらず、我が山口県でも米軍基地のある岩国地区で思わぬ感染者が出ている。
 第二次世界大戦の終戦前日に、岩国では500人を超える死者を出すほどの大空襲に見舞われ《それは、終戦を知った米軍が爆弾を捨てに来たのではないか》という話が流れたが、日本三名橋の一つ錦帯橋とその周辺の町は被災を免れた。しかし昭和25年9月のキジア台風で錦帯橋は流失、300年の風雪に耐えた橋が、あえなく流されたのは、戦後基地整備のために河原の砂利を大量に採り、戦時中は松根油採取や木材の伐採で山は荒れ放題となってやはりこれも戦争の被害だったといわれた。
 2年後に復旧された錦帯橋は、全長205m、幅は4.8m。4基の島状の橋台を築いて、これに五つのそり橋を架け、五連の半円形木橋となっていて、中央の三連には橋脚もない。
 錦帯橋は、吉川氏の要塞と居館のある横山地区と、対岸の家臣団と消費生活を賄う錦見地区とを結ぶ城門橋で、三代藩主・吉川広嘉が延宝元年(1673)に研究苦心の末落ちない橋を創建した。
 これには、寛文4年(1664)長崎から招いた帰化僧・独立禅師が、広嘉に見せた「西湖志」の図にヒントがあり、川の中に島を築き、甲斐の猿橋のようなアーチを架ければよいとの策を思いついたのだが、一度は失敗し2度目の架け替えのとき、当時の風習で人柱が考えられた。
 一人の貧しい武士が人柱に決まったが、その男には二人の美しい娘があった。父を失うことを悲しんだ姉妹は、約束の日、白装束で父の身代わりを願い出て、橋台に身を沈めた。その後橋下の清流からは、人の形に似た小石が見つかり、哀しい姉妹を思ってか、それを人形石と呼ぶようになった。
 乙女の生まれ変わりと言われる人形石は、ニンギョウトビケラという昆虫が、こいしや砂で造る筒巣。現在も錦帯橋の石垣や敷石などで採取され、岩国の民芸品「石人形」となっている。
 この2年間、コロナ禍で多くの人柱、犠牲者がでた。早く終息を願いたいものだ。
 写真は岩国の錦帯橋と民芸品の「石人形」